面取りの話

・メンのはなし

 

さきに造作材で差し回しを使う例として障子窓の枠を挙げた。

この場合、和建築ではタテヨコの材の前ツラを平らにして廻すことはせず、材の角カドに付けたメンに次の材がかぶらぬよう、メン内になるよう廻してゆくから、一本廻すごとに材は中へ追い込まれてゆくことになり、継ぎ箇所にもうける角柄と共に、ここに生じる陰影が洋室にはない和室らしい表情を作ってゆく。

 

和建築において材角にメンをとる目的は、本来角や材端は物に触れるとへこみ傷がつきやすいので、これを避ける工夫であったろうが、それに加えて直線で構成された意匠にあってぼかし輪郭で縁取られる材の見え方は、材に立体感を生み細く見せるという効果を生む。同じ径なら丸太の方が角柱より細く見えるのと同じ原理で、角柱でありながら大面取りをすることにより丸太のような見え方の効果に置き換えることができるのもこの応用だ。

 

この効果が数寄屋建築にはとても大事で、どの材にどれだけのメンをつけるかが、大変気を遣うポイントになる。ことに柱・框・鴨居・長押、建具の框・桟につけるメンは与える印象が決定的であるだけ、慎重になる箇所だ。

 

昔から大工の家に伝わる雛型と呼ばれる伝書が各種あり、そこでもこの面取りの大きさに言及して材の見付寸法から割り出した決め方が書いてあるが、数寄屋にはこの木割書が問題で、まず参考にはならないことが多い。

というのは、この記録はもともとが社寺建築のなかの玄関や書院を想定しているので、全体の規模も大きく材も太く頑丈な印象を目指した建築が出来上がるような指示になっているからだ。

寛ぎを与えようと材を軽く細くして、陰で強度を作り込む数寄屋建築の行き方とは根本から発想が違うのだ。

 

メン寸法でいえば、書院建築では柱のメンを小さくして材の太さをそのままみせる方向で立派な印象を与えようとするのに対し、数寄屋のメンは材の大きさが野暮な印象を与えぬよう、大きめのメンをとることで材を小さく見せる方向に心を砕く。

 

集成材の面取りは、アンコになる陰の木材と薄く貼る表面材から構成されるが、アンコの材を見せずに45度のメンをとるには、斜めに削るのに必要なだけの表面材の厚みがなければできない。

造作材が貴重で高価になり、対策として貼り材が登場してきた頃の工夫として、面取りの厚み分だけムク材を張り付けてメンを取れるようにしたことがあるが、これでもまだ贅沢な時代であった。

その後、更なる木材の高騰と希少化で和建築に集成材が氾濫したことから、和建築に欠かせないこの面取りという手法が難しくなってきている。ハウスメ-カ-の建築はもちろん、一般の工務店でもムク材を使うことがまれになり、集成材のメンなし枠材が当たり前になってしまった。かろうじてさすがに柱だけはメンをとった形状に仕上げているが、これとても45度に加工したアンコ形状にあわせメンの部分を同じ薄い単板で貼っているだけのしろものだ。

ハウスメ-カ-がピン角カク(メンなしのキッチリ90度)の長押を平気で付けて、素人客に本格的和室だなどとゴリ押ししているのを見聞きするは情けないし、長押が付けられないなら無いような和室のまとめ方がなければおかしい。工夫次第で格調のある和室らしさはいくらでも出せる筈だと思うのだが。

 

だからメンくらい無くても、ではなく、それほど和室の感性にとってメンが大事であることを理解していただきたいのだ。この感性を伝えずしては、住宅にほとんど日本間を揃える意味がないとさえいえるほどだ。 

出雲建雄神社拝殿の柱が柱寸法とメン寸法のみで、見事に数寄屋を表現していたことを以前この項でとりあげたが、さほどにメンの感性に与える浸透力は大きく豊なものがあるのだ。

 

 

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創作は記憶の中に・2

幼童期の感興の持続・2

 

芸術家の表現は、過去の幼童期の感興を再現しようという試みではないか、という考察のつづき。

 

かつて小生が高校へ入学して間もなくの頃、現代国語の先生より佐藤春夫や島崎藤村など一部の日本の代表的青春譜の作者たちの詩などは、君らが15,6歳のころの今の感性で出会わなかったら、数年して鑑賞するには手遅れになると脅され、かなりの本気で向かい合ったことが、いまにして感謝される。

 

156歳が持つ感受性が後年にまで持続できないことは、たとえば、当時の輸入欧米雑誌掲載の美しいグラビアの収集をいま取り出して見れば、情けないほど何の感興ももたらさないものと化している現実から実感できることだ。こうなると、自分の中に当時感激して作り上げた、今もいきいきと再現可能な心象の方が真実で、それをかつて形作ってくれた目の前の平凡な出来のグラビアはすでに虚像、ということになる。

(心象が真実で、それ以外は虚像-これは茶室待庵を訪ねた体験からも言えることで、待庵訪問以前に写真・ビデオで映像としての待庵がすっかり脳裏に出来上がっていたので、現実の薄暗いだけの待庵訪問で何かが自分の中にもたらされることはなかった、一面逆に、何かの残骸を見ているような寂しい思いすらしたものだった。)

 

15・6歳のもつ感興のエネルギ-は大変なもので、四季の気配にすら敏感に反応し、其の季節でなければならない風物を、深い感興と共に見えないものまで見て記憶に畳み込む。

 

冒頭の幼童期の感興の再現が芸術家の目的になるというのも、後年からの刷込みとは格段に深度が違うのだから当たり前だ。 

「芸術家は理論を習う前に、幼いときもっと根本的な体験をしており、彼のその後の成長と円熟はこの根本的体験につながる表現へと迫ってゆく。」と、吉田秀和(「ソロモンの歌」)に同様の指摘があることを最近知る。

 

このことは文学・美術の分野に限らず、発明・発見に創作を必要とする数学の分野に於いても同様の事があるようだ。

 

数学者藤原正彦によれば、大天才と言われる程の数学者と、彼が生まれ育った自然環境との間には密接な関係があるそうで、幼童期の美しい風景こそがその育成に不可欠とのことだ。これは藤原が近代数学の天才の伝記を執筆するに当り、彼らを生んだそれぞれの故郷を訪ね歩いた結果の結論だった。

 

これと似た事を同じ数学者・岡潔がその随想に残している。いわく「数学を仕事とする上で、研究対象が美しい風景をもつものでなければ、取り組む気にはなりません。」と。

数学には風景というものがあるらしく、岡教授はインスピレ-ションの源泉として「懐かしさ」という感興を大事にしていた。

 

また、数学をやっている人が、整数論は美しいと言っているのを耳にする。なかでも素数列はとくに美しい、などという。

 

数日前この整数論の分野で最大級の謎とされていた「ABC予測」の証明を果したことで話題を呼んだ京大数理研の望月新一教授なども、きっと岡教授のいう美しい風景をみつめてきた人なのだろう。

その機微はわからぬながら、美意識が働き出すことで強い動機付けに結びつく日本人らしい創作の実態があるのだろうと、小生などは受け取っている。

 

 

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創作は記憶の中に・1

幼童期の感興の持続・1

 

芸術家の表現は、過去の幼童期の感興を再現しようという試みではないか、という考えが消えない。

 

かつて石彫などの造形作家として活躍していたイサム・ノグチが、かつて作陶の師としていた筈の北大路魯山人(作陶・篆刻・書・料理の分野で活躍)の作品をさして、「単なるジレッタント(亜流)にすぎない」と切り捨てるように書いているのを見て以来、覚えた違和感がまだ残っている。

(たださえ北大路魯山人という人物は強烈な自負をまき散らした生き方で多くの敵を作っているが、小林秀雄の盟友、かつ審美眼の師表としてもその意見に定評があった青山次郎が「彼の書には魂がない」と断じたことなどが当時の鎌倉論壇に決定的に働いたこともあり、魯山人批判はいまも根強い。これ以上触れると今日の主題が消えるので、ここでやめる。)

 

確かに魯山人の作には仁清・志野・織部はては乾山と、□□風が多いのだが、彼の作陶は観賞用というより、現実の料理を盛ったときの楽しさ・美しさを添えるための物であったから、このような遊び心は当然あるべき要素の筈である。そのことがここまで否定されるようなことなのだろうか。

どれも見る者に楽しく破たん無く出来ている。料理を愛する魯山人が手元にそれら伝統美の匂い立つ器を自ら作り配し、自らの調理を盛り込んで知人たちと食事を楽しもうとする行為はごく自然なことだ。この楽しみは彼一人にとどまらず多くの貴紳の望むことでもあったので、彼が料理茶屋・星が岡茶寮を開くやたちまち評判をとったのだった。

(それらの器は今では魯山人作としての相応の価値をもち、それらを実見する愉しみのため、器の多くを所蔵することで有名な福田屋(東京赤坂)や八勝館(名古屋)といった料亭へ足を運ぶ人が少なくない。)

 

 

このように芸術家の創作活動の成果が、全くのオリジナルか否かが時に話題となることがあるが、日本においても創作の初めは師の模倣から始まることは普通のことで、それが正道でもあった。

芸術家が長じて独創を求められるようになったのはごく近代のことではなかろうか。それまでは、例えば江戸中期のいわゆる琳派絵師が好んでする画題の継承といった、師の作品に似せてモノ作りすることは、ときに 写し としてそれなりの歓迎をもって遇されてきた歴史もある。

 

純粋の創作にこだわる姿勢の是非・評価は分かれる所だが、創作が過去の学習を認めず、伝統に連なることを拒むなら自ら孤高を行くしかなく、そこは理解者の存在しない世界を意味するが、そこで絶対者となってどんな意味があるというのだろうか。今では語る人も少なくなった、庵治石アジイシを使ったノグチのオブジェの存在は、その象徴のように見える。純粋芸術の中に住もうとするノグチが、実用の世界に立つ魯山人にものいうということが、大きな勘違いというべきではなかろうか。青山次郎もしかりで、魯山人は自分の書について永らく盛唐の書を模していたが、晩年はひたすら良寛の書を慕ったという。しかし、自ら仏者の精神性を表出して競うことまでは考えていなかっただろう。高い精神性を求めるのは勝手だが、魂がないとは恐れ入る。

 

アメリカで生まれ幼少年期(この時期とてアメリカ人母堂の意志で米人用スク-ルへ通っている)を除いて殆どアメリカ文化の中で成人し、そこを活動の場としてきたノグチには、どうも日本文芸の味わいへの理解が希薄だったとしか思えない。

すなはち、日本文芸への共感を可能とする幼少期の体験素地がなかった例となるのではなかろうか。(これはイサム・ノグチを取り巻く、或る意味、たいへん不幸で激烈なプロフィルをwikiでみていただくと事情が納得できると思う)

 

この項つづく。

 

 

 

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御簾越の姿

女姓の不注意から起きるかもしれない不始末 

 

欠けたることのない望月を謳歌した、かの藤原道長は一条帝の時代(西暦1千年ころ)の人だが、この時代は彼の娘である中宮彰子 チュウグウショウシ*1 に仕えた紫式部の時代でもあり、彼女の才能を高く評価した道長から頻繁に高級料紙(原稿用紙として)を与えられたり、ときには求愛されたこともあるなど、こうして身近に接していた道長をモデルとして主人公光源氏を造形していたことは有名な話だ。

このようなわけで源氏物語の舞台は、同時代の宮廷の建築世界でもあったから、その文章から当時の人の住まい方が見えてくる所がまたおもしろい。

そこで今回は、御簾 ミス をめぐっての話。御簾とは高級すだれのことで、竹ひごを編んで周囲を布で縁廻したものを言い、へやとへや、へやと広縁の間に鴨居より吊り下げ結界として使ったものが、以下の話の小道具となっている。

 

道長の時代は女性が居間で男と会話するのも御簾越しで声をかわす時代で、顔かたちをあらわに見せることは無論、からだの一部を直接見られることもご法度だから、源氏物語の光宮の幼妻・女三の宮*2 のように、飼い猫が首に付けた紐を引っ張った為に開いた御簾の隙間から顔を見られたばかりに、男から一方的に思いを懸けられ、女の抗弁できぬ幼さから不倫にまで至ってしまうなどということは、思いを懸けた男が悪いとも言えるが、そもそも魅力を纏う身の自覚もない油断をしていた事を思えば、あってはならない当の女の不注意から起きた不始末とされる時代である。

そうなったあとでは、それがいくら深淵のお嬢様で子供っぽさが残っていたからなどと抗弁しても、もはや軽蔑の対象でしかなかったらしい。そのように扱った光源氏が格別厳しいわけではないようだ。*3

用意周到で怖いほどの慎重さが、大人とされる女性に求められる属性だった。

 

次は、それから一世紀ほど後の御所内の風景である。

2月ごろの月夜に、二条院に人々が集まって物語などしていたが、さすがに夜長のこととて話疲れ、眠くなってきたのであろう、その中のひとり周防内侍 スオウノナイシ という女性が横になって、小声で「枕がほしい。」とおもわずささやいたのを、たまたまそれを聴いた大納言忠家という男がこれを枕になさい、と御簾の下から自分の腕を差し入れてきたので、眠気もさめた内侍はとっさに歌で返事をした。それが百人一首に残っている次の歌。

 

春の夜の 夢ばかりなる 手枕タマクラ に かひなく立たむ 名こそおしけれ

(意訳:この春の短か夜の夢ように素敵な、あなたの差し出してくださる手枕一つをここでお借りしたばかりに、あとあとまでいわれない浮名が立つようでは困りますので、どうぞお気遣いはご無用に。)

 

上記の光景からわかることは、室内側に女性陣が群れ、御簾をへだてて一段下がった広縁側に男性陣が居並んで長夜の宴が展開されていた、ということ。

ここで疑問におもうのは、二月の月夜とは旧暦のことだから今の3月下旬としても、夜半はまだ寒そうな時期だ。

御簾があるとはいへ室内の女性陣も、室外の広縁の男性陣はなおさら、その寒さをどうしのいでいたのだろう。

さらにこの座に帝もいたとしたら、どのような位置に、どういう衣服状態でくつろいでいたのであろうか。

 

じつは一つの事実として分かっていることがある。貴族の邸宅に努める中級しもべ達には部屋が与えられず、夜間は吹きさらしの広縁(家の外だ)の一隅で寝を取っていたという時代考証がある。

このことから類推すると、早春の夜のいっとき程度の寒さは、しばし風雅に身をやつす遊びに参加する栄誉に比べれば、その主人たちにとってもどうにかしのげることだったのだろう。考証で明らかとは言え、この辺の事情は現代人の理解を超えるため映像で描かれることはないが、それにしても下部には残酷な扱いというしかない。

 

 

*1  中宮とは帝の正妻である女性の称。 

 

*2  光源氏の正妻には 紫の上 という理想的女性がいるが、このほかにそれぞれの理由で何人かの女性が身辺におり、女三の宮は亡き兄帝から託されて妻に迎えたその兄の愛娘であり、あまりの子供っぽさと上記の成人女性としてのたしなみの無さゆえに、夫である光から女性としての関心をもたれることがなかった、という事情がこの事件の背景にある。

 

*3  このことで偶然この御簾の隙間から女三の宮の容姿を目にしてしまった光源氏の親友頭の中将 トウノチュウジョウ の息子・柏木 カシワギ は恋に煩い、遂には女三の宮に通じて子を成し、この罪悪感から悩み死んでしまう。これを考えれば女性のこの種の不注意はまことに罪深いと言わざるをえないわけだが、この展開は事情が込入って面白く、解説仕出すときりがないところなので、未知の方は簡潔な圓地文子訳あたりで、ぜひ御一読を。

 

 

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大メン柱のこと

座敷の施工を進める過程で、柱の大メン(ダイメン)を決めるという作業がある。

 

大メンというのは、おもに座敷柱について言われる言葉で、一番目につく場所にある柱(これを大メン柱という)の、座敷に面している柱面のことを意味している。あとあと、座敷の印象がこの目に付き易い柱の表情で左右されることから、どの柱を大メンとして扱うかが、座敷作りでは特に重要視される。

 

工事前の下小屋における諸材料の下拵えの段階で、まず座敷の柱を本数分揃えて、材の色調や木目の感じが不揃いになっていないかをチェックし、さらにそれぞれの柱を部屋の必要とされているどの位置に据えるかを決めて行く作業がある。

この作業でまずやることが大メン柱の決定になる。

 

床の間の床柱(角柱)や脇柱が大メン柱の筆頭にあたるが、この他にも床廻り以外に大メン柱を必要とする場合がある。たとえば、客が入室し順当に着席が決まったときに、主客の正面近い位置に柱が立つことがある。このときなど、主客目線で正面に見えている柱の面をも大面扱いとすることが多い。

 

大メン箇所ではその柱の四面のうち、とくに良い表情をみせている箇所をあてがうのは勿論だが、残りの三面の検討で無駄のない利用法を考えて行くようにする。

一般の柱では、杉、ヒノキや松など、ふつうは柾目の通ったものを上等なものとして喜ぶが、床柱では柾以外にも、あえて柾目を脇へ寄せ大メンには杢目や中杢、中板目といった板目を見せて景色とすることが多い。

また、広間などでは大面として見せたい柱が何本もある場合があり、そのときは選定段階で各柱のもつ大面に等級をつけて、その位置からくる優先順に配置してゆくようにする。

 

今は当たり前になっている四面集成材の柱であったり、ムク材でも追い柾*1 の四方極上柱であれば苦労はないが、芯持ちの柱では将来の割れ止めに必ず背割りという楔形の隙間を入れてあるので、そこは壁付面に回すなど使用法も決まってくる。

実際に建具が入ったり、壁がついたり、押入れのなかに隠れたりする箇所が多いので、予算が充分で事前に必要な本数が確保できる場合は別だが、ふつうの住宅では平面上の検討で用意しておけばだいたいはなんとかしのげるものである。

 

注意すべきは土庇の独立柱で、ここは座敷から庭からというように周囲からの目線が届く場所なので、その柱の背割り(見せたくない!)の向きを考えるに当たっては、室内とは違った注意が必要になってくる。要は客の動きとその視線を予測してなるべく目に触れない向きで決定するというに尽きるが、こればかりは実際にあたって経験してゆくしか伝える方法がない。

 

*1:丸太からの木取りの仕方に付けられた名前で、角柱の断面を見て一方の対角線方向に木目が走る材料の取り方を追い柾といい、4面とも柾目になるので床柱などでは最高の木取り法である反面、芯持材ではないので圧縮荷重に弱い欠点ともなる。

 

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青年僧の修行に触れて

修行者の特殊能力

 

池上本門寺はいうまでもなく、日蓮宗の総本山として宗門の中心にあり、ここには関東一円のご住持の方々が集まり寺務を執り本山運営をされる一方、次代の青年僧侶たちも修行の一環として実務担当になり詰めている。

かつての建築修業時代、各種迎賓施設の多いこの本門寺内で、永らくそれら工事現場の指揮と設計でお寺に出入りさせて頂いた時期があり、この間、ここで顔を合わせる青年僧たちと仕事を通じていつか雑談を交わす日常をもったが、これが日蓮宗を身近に知る貴重な体験となった。

 

なかでも強烈な印象として思い出すのが、ここで折々立合うことになる日蓮宗独特の読経儀式で、当時この儀式に参加できる機会があると知ると、とても愉しみにしていたものだった。

 

7,8人の青年僧たちが、片手を僧衣の腰にあて、もう片手にモッケンという二枚の木片を高々と振りかかげてカンカンと甲高い音で打ち鳴らし、叫ぶがごとく朗らかに大きな声で読経を唱えてゆく様子は圧巻だった。

最後にナムミョウホウレンゲキョウを力強く連呼するその元気の良さは、他宗では見られないものだったが、終了後の耳鳴りがするほどの聴覚の痺れは、いつもきまって洗礼を受けたような一種爽快な気分にさせてくれたものだった。

荒行で有名な身延山で修行を経てきた青年僧たちがもつ、迷いのないまっすぐなエネルギ-そのものをもらったと思えるところが貴重だった。実際これを行うのは修行を経た二十代、三十代前半の青年僧たちで、四十代以上の年配僧がしているのは寡聞にして知らない。そこに強烈な祓いとしての働きをみているためなのであろうか。

 

日蓮宗の修行道場として修行の厳しさで知られる山梨県山中の身延山久遠寺。

ここで鍛錬されて下界へ戻った者が周囲へ与えるインパクトには、常人には見えないもの(強い霊感や予知能力、人の心理など)がはっきり見えているというように、驚異的なものがあるそうだが、しかし一旦修行から離れると、時と共にこの能力は薄れてゆくものなのだそうだ。そんなことをここの青年僧たちが普通の体験談として語り、しかし一方、あそこはつらく怖いところなので二度と行きたくない、などと誰もが言っている。

行の中心は瀧行らしいがあまり詳しく語りたがらないのは、俗界で神聖であるべき内容を語ることに、一種の禁忌の意識が働くのであろうと思えた。

 

明治期にいらした浄土宗の山崎弁栄ベンネイ上人という方は、宗教学の紀野一義、数学者の岡潔の著作で広く知られるようになったが、この方が伝説的な定力 ジョウリョク *1 の持ち主であった。幼少からの天分もあったのだろう、ナムアミダブツの称名一筋で心境を鍛え上げてゆき、数々の奇跡的事績を残して逝かれたことで知られている。透視力や予知力をはじめ壁の透過や遠隔地への二所出現など普通には信じがたいことがあった。これらはたまたまその必要から図らずも人目の前へ晒されたことで記録に残ったが、どこまでこの種の能力が備わっていたものか今では全く知りようもない。イ-タカリ-ナ星雲

 

こういう人智を越えた存在は奈良の行基や空海はじめ歴代出現しては、宇宙の闇のなかに突如現われる新星爆発のように、世の凡人に人の持つ可能性について考えるよすがを鋭く提示しているようにもみえるが、諸兄方はこのような世界をどのように受け止められますか。

 

この一年、お付き合い下さりありがとうございました。くる年が皆様にとり、より良いものでありますよう。

 

*1 修行の成果として持つに到った強烈な精神力。

 

※掲示画像は、ハッブル宇宙望遠鏡で捉えたイ-タカリ-ナ星雲

 

 

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