古武士・平野某の昔日談

紹鴎や利休が数寄屋を追求していた時代は、また、一方で功名を求めて名もない武士たちが激しい戦いに明け暮れていた血腥い時代でもあった。

一握りの武将たちが城持ちとなる一方で、ほとんどの武士たちはそれを支えることで一生を終えていったに違いない。

山里の庵に一時の静謐を求める過程で様々な茶室が誕生してゆく背景には、対極に時代の醸す殺伐とした風景があったことも忘れてはなるまい。

 

戦国・関が原が遠い昔となった頃の話。

江戸城内に、高名な歴戦の古老・平野 某が珍しく登城してきたことを知った直参の若者たちが、武勇談の一つも聴けるよい機会と集まってきた。

 

初めは言葉少なに若者の問に応えていたが、そのうち思い澄ましたように語りだしたことには、

「自分などは勇気が足りないためこんな歳まで生きながらえてしまったが、本当に肝もすわり勇気のある者達は、みな真っ先に突っ込み次々と死んでいったので、いまはじぶんよりほか残っていないのだ。それを思えばまことに恥ずかしいことである」、と。

 

かつて勇気のありかに挑みながら老残のいまは死者に向かい謙虚にならざるを得ないという、なんともすがすがしい姿勢で、大好きな話だ。一流アスリ-トの回顧談とも聞こえる。

一方、この平野某はさほどの出世をしたようでもない書きようで、その不器用さがまたこの伝える話のよいところだ。

 

 

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松原設計室
http://www.sukiyakenchiku.com/
住所:〒279-0001 千葉県浦安市当代島2-4-1-412
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炬燵の話

朝夕の冷え込みがきついこの頃、居間の炬燵での読書や書き物が似合う季節になってきた。

 

空調や床暖房が主流となった今でも、炬燵の良さは室に根が生えたように占める固着性だ。

 

床の間が座敷秩序の中心となっているように、炬燵がある所に人が集まることで、その家の居間がもつ独特の意味秩序が自然と組み立てられてゆくという性格をもつ。
食事のテ-ブルとなり、対話の座となり、ゲ-ムや団欒の場を提供し、独り眠気を催せば腰を伸ばして仮眠の場ともなる気安さだ。

 

 

一口にいう炬燵だが、この掘り炬燵には使い勝手により、何種類かの形式とそれぞれの納まりがある。

田舎などでは炬燵と櫓上の甲板の間に炬燵掛けの布団を挟んで垂らした、生活の中の光景を見ることがあるが、粋と簡潔が身上の数奇屋建築の中の炬燵ともなるとだいぶ様子が異なる。

 

・一年を通してつかう住宅の居間などの炬燵の場合。

これには室の冷暖房が前提であるが、炬燵周縁に垂らす布幕を夏なら絽、冬なら羽二重と季節で替えるということをして、生活のちょっとした変化を楽しむことをする。
この方式だと、炬燵の中で暖を取る必要がないため、布幕はあくまで櫓周囲の飾りでしかなく、そのため甲板と櫓のセッティングがしっかりと噛合うので具合よい。

 

・秋口から春先までの限定使用で、畳を上げて炬燵をセットすることも昔は多かった。この場合は、夏季には櫓は畳の下に収納できるよう特別の仕掛けを床下に作っておく。

 

・上記とは別に、料亭などの座敷で特別大人数の客の用意に、床に長大な炬燵をセットすることがあり、このときは隣室境のふすまと敷居を取り外し、室の畳をずらしてセットすることも辞さない大仕掛けを仕込むことまでする例がある。

・また、いつの頃からか炬燵の使用にあたって四隅の小柱が邪魔に感じられるところから、これを省略して甲板中央のスチ-ルで補強された独立柱で受ける方法が料理屋座敷で発達し、いまでは当たり前のようになってきている。さすがに住宅ではそこまでのことをする例は少ない。

 

・炬燵内部の床には電気床暖房を仕込むのが一般的で、その上張り仕上としては現代ならカ-ペットを敷き詰めることが多い。なぜか畳表を敷き込む例を見ないが、上履きなしの素足(足袋・靴下はしているものの)で床を踏むことを考えると、カーペットのように多少沈む着地感のあるほうが温かみを感じるためかもしれない。炬燵のある和室には質感や見た目の清潔感という点で畳表がふさわしいと思うのだがこの例を見たことがないのは、立ち上がるときに足裏がすべるということがあるため避けられるのであろう。

 

住宅や料亭等でもっとも使いやすいとされて踏襲してきた炬燵各部の標準寸法というものがあるが、話が細部に渉り過ぎるので、いつか機会があれば稿を改めて紹介してみたい。

 

 

 

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堀口捨巳「利休の茶室」

・ここに堀口捨巳著「利休の茶室」という本がある.

 

文字通り利休の茶室のことが書かれているのだが、ふつうに読んだのでは面白みに乏しい寸法と記録の羅列ばかりで、なんということもない記事ばかりだが、この論考が1960年度の建築学会賞を受賞しているのだ。

茶室を学び始めた当初、書名の与える期待から、甚だ高価にもかかわらず購入し大事に読み進めたこの本は、そういう訳でこちらの興味を満足させる記事は一向に出てこないのだった。

そうなると建築学会賞まで与えられている意味がわからない。なにか理由があるはずだった。

 

この本のどこが建築学会賞に価するのか。

この本の価値を説く論説にも出会うことのないまま、あちこちの茶室の研究書を読み歩いて10年ほどたった頃、その価値がようやく姿を現してきた。

 

堀口のこの論考のもつ価値は、数すくない利休関連記事の載る茶書、手紙、控えのありかを探り当て、自らも古書街を探り求めることは勿論、そのほかにも茶書の、しかも原書を披見できるまでのツテを得るための長い努力の末にやっと出会い、まだコピ-機もない時代に写真を撮り、必要があれば筆写をして難文字を読み解き、数を集めて比較考量し、やっと搾り出した利休好みと呼べると確信できるまでの原液のような一滴を集めて見せた、というところにあるのだ。地味と言えば、たいへん地味な研究だった。

原文で読み解きというが、虫食いのしみだらけの和紙に書かれた毛筆の写本の癖ある文字を読めるようになる訓練だけでも相当根気がいる修練だ。これも自分で経験しないとわからないこと。

 

一方で、当時の学会の選考委員の中に同様の研究をしている人も少なかったであろうが、そんな堀口の悪戦苦闘とその結果をきちんと評価できる人たちがいたということにもちょっと驚く。

研究分野の広がったいまなら、そんな人がいるであろうことも充分考えられるが。

 

堀口はこの成果を基礎として、利休についての論考を、茶室・道具・点前へと広げて、さらに有楽、遠州といった茶匠の研究へと及んでゆき、茶室研究の第一人者とされるまでになったのだった。

 

 

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広間座敷の床刺し

日本座敷の伝統意匠を扱う際の常識の中に、「床刺し」を嫌うということがある。

 

何を意味しているかと言うと、へやの中心であり主人の座であるべき床の間に向かって、畳の縁や天井の棹縁などの長物が直接ぶつかってゆく作りを、尊ぶべきものを無視した行為、禁忌を犯すものとして極力避けることをいう。禁忌はともかくとしても、刺さるような線が目に入るのは落ち着かない上に、美しくない。

 

現代にあっても、ことに客を迎える正式の書院広間では床刺しということが、不吉として忌まれるのが一般だ。

 

ところが不思議なことだが、礼を大事にしているはずの茶家でこの異風なことを見ることがある。

いまも千家の流れでは八畳敷きだと畳の床刺しが流派の常識になっている。こうなったのは千家流以外の他流はあずかり知らぬことで、千家流以外の流儀では、利休の時代以来の伝統を守るかたちの座敷で茶を点てている。

 

この問題は以前にも触れたところであるが、茶事の稽古法として七事式(花月とも略称される)が考案されたその初期においては、稽古上主客の配置優先で畳配列をした結果生まれた床刺し座敷は花月用の座敷として限定し、それとは別に式正の座敷が広間茶室としてあった(如心八畳)が、花月が広まるにつれ床刺し座敷が普通となり、これと別に座敷を用意することもなかなか一般にはできないことでもあり、あくまで流儀の中で、床刺しが正式扱いに昇格したものと思われる。

 

この様子を憂慮したと思われるのが宗家・如心斎と共に七事式を策定したあと江戸へ出た高弟・川上不白(不白流:江戸千家)で、江戸ではこの床差しが当初は相当の非難・批判を浴びていたはずだ。

 

その結果、八畳の畳配列はそのままに、床差しを避けつつ宗家の新工夫を広間のなかで矛盾なく進めたのが不白の広間座敷であった。

その解決案として、当初は八畳の床側中央に巾一間の畳を敷いて床の間とし、その左右に半畳づつの棚を置いて床差しを避けていたが、のちには更に座敷側へ床と平行に二畳を加えた十畳座敷とすることで、床中のデザインをフリ-にして、かつ床刺しへの批判を上手に交わしている。

不白の八畳座敷の工夫は、のちに千家の八畳新座敷・松風楼にそのバリエ-ションを見出せる。

 

 

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茶室と女性

茶の湯盛んな現代でも、茶の稽古をする男子は珍しい部類だが、かつて茶の湯の草創期の状況は真逆の風景が展開していた。

桃山期から江戸初期へ掛けての茶の湯の初期の歴史を少しでも齧れば、そこには女性の姿がないことに気付くであろう。男社会の交際上の必要から発展していった茶事に女性の参加が認められるまでには、世相の安定と女性の社会的地位の向上が不可欠だった。

 

ということで、女性の茶事への参加記録を調べてみた。

 

そもそも利休当時までの茶会では、茶の点前は立て膝が基本姿勢であったといい、点前を終えた時の姿勢は安座といって両足の裏を合わせて尻餅をついた形が常の座り方であった。この安座は客の姿勢でもあり、即ち、主客ともに正座という習慣がなかった時代であった。このような姿勢は女性には甚だ不都合な状況で、これでは参加もしかねるであろう。

 

女性の社会的地位については、早く寛永(1624-1645)の頃の本阿弥光悦母の言動が有名で、一族を左右するほどの発言力があったことが記録されているし、宗旦没後の千家年忌法要の願主(すなわち千家の総代表)として宗旦後妻の名が残るなど、その存在感がいまに伝わっている。

 

わかった範囲の記録に現れる女性参加では、利休年忌茶会記録に現れる、千宗守母堂の亭主による、宗室妻と、近衛家老女を客とした茶会があり、どうもこれは女性だけの茶会だったようで、理解できる。それにしても、これなどどんな姿勢で茶会の二刻(4時間)を過ごしたものだろうか。既に正座が浸透していたのであろうか。近衛家老女の正座が想像しにくい。

 

 宗旦四天王の一人杉木普斎(1628-1706)の茶室の水屋に掲げられた壁書(禁制を記した板)中に、女性を連れ来るべからず、という一条がある。

こういう断りがあるからには、すでに女性参加の現象が世間ではちらほら出現していたこと、この風潮を茶事修行の妨げとして警戒していたことが推測されて面白い。

 

元禄期の京で宮中茶道を牽引していた近衛予楽院(1667-1736)の会記中に、近衛家奥女中の参加していることが、出現数は少ないものの記録されている。

男女同座の茶会のようだが、公家では女性でも袴を穿く習慣があるとしたら、この時の服装を考えると短袴(モンペまたは長めのキュロット様のもの)のようなものを着用していたか。時代は下ったとは言え、公家社会での正座は想像しにくい。

 

公家世界は武家ほどには、男女間のけじめに目くじらを立てるようなことが少ないこともあったようで、八条宮智仁親王の桂離宮にみるような広間中心の建築構成の一部に広間から入れる小間茶室(松琴亭等)を設けているところなど、女性も参加しやすい工夫とも解釈できる。

女性参入の当初を考えれば、独立した4畳半茶室などの小間に男女同座はさすがに、当時では穏やかでない反応が各所から起こったであろうと想像できる。まずは10畳・8畳の広間の同座から、公家・町家を中心に茶事への女性参加が浸透していったと思われる。

 

 

 

 

 

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宣長の恋

 

宣長と母の執拗な初恋成就。

 

伊勢松阪の医師で国学者・本居宣長の修行時代の話。

京の漢学塾と地元松阪を休暇のたびに往復していた宣長は、途中にある親友の屋敷に一泊してゆくのがきまりだったが、そこであるとき友人の妹たみを見初めたことからいづれ自分の妻にと心に決めるが、まだ修行の身であることと友人の妹という安心感からか、言い出しかねているうち、ある年友人宅で妹がすでに嫁いだことを知らされる。

 

宣長をことのほか大事にしている母は息子の様子から鋭く事態を知ると、修行の障りになることを惧れ、さっそくにも嫁を迎えてしまう。宣長もショックから自棄になっていたか、そのまま話は進み結婚した。

 

しはしたが、まだ未練はたみの上にあり、嫁ぎ先もさほどの遠方でもなく、その後の消息を気にかけていたが、半年ほどして宣長を狂喜させることが起こる。

 

たみの相手が亡くなってしまったのだ。

 

このことを知った宣長はさっそく母と相談して、来たばかりで事情も知らない嫁をことに寄せて離縁し、返してしまう。そして友人の家へゆくと、たみを後添えに迎えたい旨申し込み、成就させている。

 

生きている人にとり恋愛ほど大事なものはないという宣長の信念は、かれにとっては絵空事ではなく喉の渇きのように必死なことだったのだろうとは、初めてこの事実を探り当てた国語学者・大野晋の言う所だが。

それにしてもこの話、どこかイヤなものが残る。

 

離縁された女性はその後、どんな人生を過ごしたのか、気になるところでむごい話だ。

以上は大野が当時の記録(宣長の日記・消息)と寺の過去帳から偶然解明したもの。

 

宣長嫌いを生みそうだが、母子家庭における母と息子の間に起こる類似行動はしばしば耳にするところで、明治文壇の大立者森鴎外にも同様なことがあり、このようなことに対しては、やはり世間は時代を問わず倫理的な抵抗を示すもので、隠そうとする心理とそれを知って違和感を表明する世間があった。宣長当時も宣長の満足とは裏腹に終生自分の生き方に批判のあることを、宣長自身思い続けていたことだろう。

 

この事実が終生のしつこい論敵だった上田秋成の知るところとなっていたら、一歩も後に引くことのなかった宣長が、どんな弁論を残していたか、それだけは惜しまれるところだ。

 

 

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