桜の怖さ

吉野の桜の恐怖

 

不順な天気が幸いしたのか、今年の桜が長命であるのは目出度い。

 

桜はどういう訳か、昔より人の死と二重写しでイメ-ジされてきた。

願わくば如月弥生のころに桜の下で死にたいと望む西行、一夜の宿を借りたいと語りかけて擬人化する忠度、近くは桜の下には死体があるはずという基次郎など、その盛りの余りの見事さから現実以上の何物かを感じて思いを寄せてきた人たちは大勢いる。

 

これは平安のむかしのこと。

吉野の夜桜を見ようと独りで山に上った男が、夜桜の余りの見事さに、しばらく感嘆して見ほれていたが、ふと気付くと、こんなに見事な景色を一人だけで愉しんでいることが空恐ろしくなり、いそぎ山をおりてきた、という話が今昔物語に出てくる。ただそれだけだが、おそらく実体験した者から出た話に違いない。

 

見渡す限りの満開に咲く桜、桜、桜。

桜以外誰一人いない中、息づく桜だけが目の前はおろか、目に付く限り満山で花びらを散らせているのは、まるで大きな生き物のようだ。

雪の夜が明るいように、散った花びらでぼうっと明るい山肌がどこまでも広がる。しかも誰も見えないのに生き物の気配だけが自分の周辺でざわめいている。

これはおそろしいに違いない。

 

千年もの昔にこんな発見もあったかと、初めてこの話に出会ったときに感動した。ちょっとホラ-めいた気分のあるところも、近代的で新鮮だ。

 

ところが周囲の友人・知人に話して反応をみたところ、このはなしの面白さを一向に解さない者が多いのを知り、これにも驚いた。 

そこで今回は、この話の面白さがわかる人を求めて、この話を紹介してみた次第。

 

この味わいをわかっていただけた諸兄は、きっと詩人の感性と想像力をもった人にちがいない。

 

 

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松原設計室
http://www.sukiyakenchiku.com/
住所:〒279-0001 千葉県浦安市当代島2-4-1-412
TEL:047-354-1254
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日本の橋

 戦前の日本浪漫派評論家・保田與十郎に「日本の橋」という歴史的感傷をさそう読後感をもつ好評論がある。

秀吉の「小田原の御陣」に参加すべく勇んで出て行き、2度と還ることのなかった息子を傷んで、33年後の供養にと自分の郷土の片田舎にある小さな川に橋をかける老婆の祈りの話である。

保田がこの話を伝えられるのは、橋を掛けるまでの顛末が四百年前この老婆により石(若しくは擬宝珠)に刻まれた文字で残るからであり、またそれが心をうつ名文であるからによる。

 

 てんしやう十八ねん二月十八日おだはらへの御ぢん、ほりをきん助と申す十八になりたる子をたゝせてより、又ふためとも見ざるかなしさのあまりに、いま此はしをかける事、はゝの身にはらくるいともなり、そくしんじやうぶつし給へ、いつがんせいしゆんと、後のよの又のちまで、此かきつけを見る人、念仏申給へや、卅三年のくやう也

 

橋の名は裁断橋。堀尾金助。落涙。即身成仏。いつがんせいしゅんは戒名。33年のくやう(供養)は33回忌のこと。名古屋熱田にあり、女性作の日本三名文の一に挙がっている。

 

 以前、立て続けに橋の設計を依頼されることがあり、この時期に集中して日本の橋とまともに向かい合ったことがあった。

 日本の橋の様式は、擬宝珠・欄干・袴付のものを真とすると、それらを省略する方向で草加してゆく系統と、桂離宮の池にかかる土橋・石橋等構造上別種の系統のものにわかれる。錦帯橋や猿橋は前者の特殊例と分類できるであろう。

 

あるとき高知県からの話で、はりまや橋周辺の再開発計画を進めるなかで「はりまや橋」の復元設計を依頼された。

このときは、地元が橋の復元設定年代にこだわったことから、俗謡の発生期である幕末とするのがふさわしいとされたが、あらためて考えれば地方城下の場末にすぎなかったであろうその場所で考えられる橋とは、お粗末な木橋程度でしかなく、これををリアルに再現することもあまりに無意味であり、当初設計の二つの橋脚をもつ大橋案を成果として手を離れることとなった。

その後の推移を見ると、当初設計通り朱塗り欄干式の様式にもどっているが、当初10間以上の大橋で設計したものが、その後の計画縮小を経て、現在は4間程度の小橋になっている。

 

それからしばらくして沼津御用邸の東西を分ける用水の跡を結ぶ木橋の設計依頼があり、ものがかつての皇室敷地にかかわることなので、その様式については皇居御苑のなかに架かるいくつかの橋を参考にしては、ということで皇居内の橋ばかりを見せて頂く機会があった。

案外に無骨で素朴な形式のものが殆どであったが、そこはもと江戸城内であり武家の用いたものであったことを考えれば当然のことかもしれない。

しかし今回の計画は場所が風雅な海浜の御用邸という静養の地ではあり、もうすこし細めで柔らかなものにしたかったが、お上であるお役所のご意向ではやむなく、江戸城式の採用とはあいなり、現在もふたつの庭園を結ぶ唯一の橋として活躍している。

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木橋は将来の修理・架け替えが前提になっているので傷み易い箇所の保護・交換を予期しなくてはならない。擬宝珠・然り、橋桁木口に小庇を付けたり、床に勾配をとるなど、雨掛かりへの配慮は欠かせない。

 

 世田谷の住宅・I邸では新築の新館と隣地にある在来のお住まいとを連絡する通路を必要としたため、本宅の床が高いのを利用して、下を潜れるほどの低めの橋形式でつなぐことを考えて見た。

 

更に新居の玄関アプロ-チからよく見えるところから、能の橋掛かりを模したア-チ状の低い手摺で非現実の雰囲気を添えた演出をし、趣向好きのオ-ナ-から喜んで頂いたことがあった。

 

橋とは此岸と彼岸とを結ぶ境に位置するもので、異次元への誘いを垣間見せる不思議な仕掛けが似合う建築である。見分けも定かならぬ陽が落ちた頃合いを、彼ハ誰レ刻(カワタレドキ)、誰ソ彼レ刻(タソガレドキ)と表現したような曖昧な想念をたのしむ仕掛けがかつての日本建築や庭園にはあったのだが、あわただしい現代の中にこそ、悠久のときの流れにおもいを馳せるよすがを数奇屋にこそ、ほしいものだと思う。

 

 

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国宝となった紙模型の話

国宝となった紙模型の茶室がある。

 

その種の模型は、一般に「茶室起し絵」と呼ばれている。

茶室の壁を一枚づつばらばらにして、内外の姿図を20分の一の縮尺で和紙の両面に描き、これを平面図を描いた台紙上の各位置に貼り付け、それを組み立てることで茶室の小型模型をみるようにして楽しむ「茶室起し絵」。視点を変えたりして結構な臨場感が味わえる。

遊びと実用を兼ねた、こんなに手の込んだものを、誰がいつごろから始めたものか。

 

知られているだけでも数種の系統の異なる「起こし絵集」があり、収録された茶室の傾向を調べるとそれぞれ特定の流派が背後にあって、自派の系統の茶室を中心に編集している傾向が見えてくる。それらを総合すれば、全国の有名茶匠の茶室はだいたい網羅されているといえる。

 

茶室資料もなかった当時、茶家や大工などに結構需用があったようで、江戸・明治と何度か版行されて木製の箱入りで売られ、いまでも時々古本屋などに一揃い50万円というような価格で出ることがある。茶室起し絵の建築史的研究は誰もまだ未着手の分野なのだが、比較的まとまった論考が中村昌生「茶室研究」の一部に見られる。

 

そもそも版行の元本は、それぞれの茶室の細部実測から出発するはずである。

しかし実際には、それらの所持者も大名・公家・大商人・家元級茶人たちというのであれば、その茶室に実測の便をとるまでには、企画者が財力も権力も相当に持った大物茶人でなければできることではない上、それでも“こね”や“つて”を相当に使って、その道の物慣れた筆記者を用意して、やっと出来上がる代物に違いない。

 

国宝となった起こし絵は、白川楽翁こと松平定信が指図して制作した起し絵である。

 

さすがに老中まで勤めた勢力家が企画実行しただけあって、当時日本各地の著名茶室の実測をもとに50席程まとめており、製作経緯で文句なく由緒正しく、これを第一とする。由緒正しいとは、寸法にも形にも捏造が少なく信頼できるであろう、ということだ。これが国宝に指定されている理由だろう。

 

上記の製作条件と過程を考えれば、奇跡のような成果であるから、国宝もむべなるかなである。

 

 

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瀬田の唐橋の擬宝珠、或いは利休の教育法

YataderaGiboshi擬宝珠(ギボシ)のはなし。

 

江戸初期、関西建築界の幕府方トップに中井大和守正清という人物がいた。遠州が普請奉行として中央から出向けばその配下で大工集団を統率するような立場の奉行だが、公家世界とも茶の湯を介して親近している実力のある著名人である。

この人が奉行の役得でもあろうか、有名な「勢田の唐橋」*の工事の際、交換となった親柱に付いた擬宝珠(おそらく銅製)を入手保存していたのを、関白近衛家煕(予楽院:この仁は公家社交界の中心的人物)を訪ねた際に贈呈、これが後年水指となって茶会に出たそうだが、この予楽院は日ごろ茶には一箇言をもつ考証家のような人なので、先の尖ったあの擬宝珠を逆さにして(?)どう水指にしたものか、その工夫と形を考える時興味はつきない。

 

この瀬田大橋の擬宝珠。

遡ること60年前のある朝、弟子を集めた席で、利休が言う。「瀬田の唐橋に付いている数ある擬宝珠のなかに特に優れたものが2か所あるのですが、それを見分けた方はおられますか」と皆に尋ねたところ、織部が突如席を離れるや還って来なくなった。夕刻になろうとする頃、馬に乗った織部が戻ってきて、「さきほどご指摘の擬宝珠は橋の両端のものと見分けました」と言うのを聴いた利休は「その通りです」と答えるのをを聴いていた一同は、織部の執心の深さに感嘆したという。

 

前にも書いた通り、当時、優れたものを見るには実際に現物を見届けるしか方法がなかったため、美に執心する当時の人たち、とくに茶人と目されているような者たちの努力は対象の幅も広く、何にでも貪欲に好奇心を働かせ吸収していたようだ。

 

秀吉の小田原での北条戦が片付いて一同が京へと還る途次のこと。このときも利休と織部が駿河の波打ち際に馬を打たせてしばし波の打ち寄せる景色を眺めていたが、織部に「この景色を見ていて新しい茶の工夫が涌いてきませんか」と問う。何事かと怪しむ弟子に「この眺めをもとに、私は京へ帰ったらこれを新しい風炉灰の景色に試してみるつもりです」というのを聴き、絶えざる利休の工夫の様子を目の当たりにして敬意を新たにしたという。

 

それにしても、後年の中井の取り出した擬宝珠は、数十年前に利休、織部が折り紙を付けたとおなじ擬宝珠だったのだろうか。

 

歴史の面白さを感じさせる格好の例といえる。

 

  • ※ 瀬田の唐橋は琵琶湖が南で絞られて川となるところに掛けられた、当時巾8m長さ600mの日本三大橋の一つ。親柱の数だけでも100本は下らないだろう。京の地へ入るための第一関門となるため神功皇后の昔から東西の大勢力決戦の舞台となってきた。もう少し上流にあったのを信長が今の位置へ今の規模で架け替えたのが1575年。その後秀吉、家康と戦で焼かれたのを修復したほか、交通量が只ならないので傷みも速く、幾度も架け替えている。

 

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柱一本の驚き!

 

5年程前のこと、古建築を訪ねる旅行で仲間とともに、日本最古といわれている奈良の(イソノカミ)神宮へ行った。

 出雲建雄神社拝殿

やや登りの参道を歩み、左に神社の正門を見つつ右を見ると階段数段を上がったところに出雲建雄(イズモタケオ)神社とそれと向き合う形で拝殿がある。

これが今回の話の対象だ。

 

この横長の拝殿の屋根の下に左右に分かれた部屋が蔀戸を巡らして固まる中、その中央がぽっかり空いて土間となり、ここに立つと目の前の一段高い健雄神社社殿に向かって拝礼する形になる。

それだけでもすでに吹き抜ける風の中に立つような感性を表現した意匠の拝殿なのだが、ここの柱がさらに見事に、例のあの共通のセンスを体現しているのを発見するに及び、一同絶句。

 みな一様に、柱に注目している。

これをなんと表現したものか。

 

一瞬後には、見るもの皆思わず「おお、数奇屋だァ!」と声を上げたものだった。

まったく意外なところで見せられた感動に騒然。

 

時代でいうと1300年創建の鎌倉の作、国宝。柱寸法で85角メン7ミリというところか。

 

重い桧皮葺きを支えているとは思えないほどの軽やかな姿が、けなげにも好ましい。手に触れられる状態で覆堂に入れられもせず健全な様子で建っていることにも驚きだ。このときを待っていてくれたようで、おもわず触れてしまう。

とき既に夕暮れで、別れを惜しみつつ帰ってきたことだったが、今回旅行の最高の収穫という者が多かったのも宜べなるかな。

柱一本がこんな伝染力をもっているとは。作った棟梁はえらい。

 

さきに古典のなかの数奇屋として高野山壇上伽藍にある不動堂(国宝)を発見してはいたが。

この不動堂*は平安末期、内親王の住居だったとの説もあり、流れるような庇のラインを見せる小振りで優しい建築遺構だが、残念なことに近年周囲に柵が設置されてしまい、以前のように履物を脱いで広縁に座り往時をしのぶというようなことも難しくなってしまった。

 

こちらの国宝拝殿も、いずれ同様な扱いになることは明らかだ。

日ごろ数奇屋の感性を自問しているあなたに、ぜひ早めに訪れる事を薦める。そして、これに数奇屋を感じてもらえたら、たいへんうれしい。不動堂3

 

*不動堂の前の別格本山明王院(日本三大不動のひとつ赤不動を伝えている寺。他は京都青蓮院の青不動、三井寺の黄不動)を宿坊にして早朝散歩で訪れると、朝もやの中、無人の遺構を堪能できる。

 

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桃山茶人の学習の凄さ

玉澗「洞庭秋月」お茶会に参加した者がその時の相客や使われた道具、出された料理などを後の心覚えに書き留めたものを茶会記と呼んでいる。これらをみていると茶道草創期の茶人の貴重な生きた姿を垣間見ることが出来、そこから様々なことが想像されて、飽きることがない面白さだ。

 

利休当時の堺の茶人仲間であった松屋や天王寺屋の茶会記をはじめ、九州博多の神谷宗湛の茶会記などをみると、拝見に出された名物類の道具や表具などの姿、形から寸法まで事細かに書かれていたりする箇所がある。形姿は印象に残るとしても、寸法となるとどうしてこれを計測できたものか。

記録を読み始めた頃はなぜわかるのか不思議に思っていた。

いまになると、いくつか類推できることがある。

 

一つは利休が日ごろ懐中していた愛用の竹製の、小ぶりの物差しが現存しているということをその後知ったことと、いまひとつは畳の目幅がだいたい5分(15ミリ)なのを見当にしたであろうということだ。

 

当時は自分の記憶ひとつが名物を見たという事実を伝える唯一の手段であるから、様々な方法で記憶を鍛えている当時のひとの記録のすごさには圧倒される。

博多の大商人で茶人神谷宗湛の日記など、床に掛けられた絵(玉澗の洞庭秋月図)の構図から、書かれている賛の文字、印の位置と形、はては表具の裂地の色・模様まで克明に記録していることに驚かされる。(なぜ分かるかと言えば、宗湛が見た時は天王寺屋の所有だったが、同図はその後徳川家・前田家と伝世していまは文化庁所蔵品として現存し、比較できることではっきりしているからだ。)これは宗湛に限らず他の茶匠の会記でもほぼ同様にいえることで、記憶で持ち帰り記録するということが日常茶飯事の習慣だったのだろう。

 

茶点前の学習でも見て覚えるのが建前であったから、ビデオや教本がある今と違い、教える人ごとに点前も変わっていて、江戸期に入り茶書の形で流派の点前詳細を伝え出すことが盛んになると、なおのこと流派性が固まることが起こるのであろう。

 

形のより正確な保存と伝達の工夫に紙型(切り型)というものもあり、たとえば茶入の姿の断面を同寸大に型紙を切り取って作り、これを持たせて朝鮮や中国に発注するということも行われていた。こうして作られた当時の切り型も現存していることで、それがどういうものであったかもはっきりしている。

 

利休の阿弥陀堂釜は、利休が人から頼まれて創意したデザインを、切り型にして釜師へ渡し作成させたのが起こりという。このとき出来てきた釜を見た利休は、余りにみごとな出来だったので依頼主に渡すのが惜しくなり、そのまま自分のものにしてしまったという話もついている。

 

この項つづく

 

 

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