瀬田の唐橋の擬宝珠、或いは利休の教育法

YataderaGiboshi擬宝珠(ギボシ)のはなし。

 

江戸初期、関西建築界の幕府方トップに中井大和守正清という人物がいた。遠州が普請奉行として中央から出向けばその配下で大工集団を統率するような立場の奉行だが、公家世界とも茶の湯を介して親近している実力のある著名人である。

この人が奉行の役得でもあろうか、有名な「勢田の唐橋」*の工事の際、交換となった親柱に付いた擬宝珠(おそらく銅製)を入手保存していたのを、関白近衛家煕(予楽院:この仁は公家社交界の中心的人物)を訪ねた際に贈呈、これが後年水指となって茶会に出たそうだが、この予楽院は日ごろ茶には一箇言をもつ考証家のような人なので、先の尖ったあの擬宝珠を逆さにして(?)どう水指にしたものか、その工夫と形を考える時興味はつきない。

 

この瀬田大橋の擬宝珠。

遡ること60年前のある朝、弟子を集めた席で、利休が言う。「瀬田の唐橋に付いている数ある擬宝珠のなかに特に優れたものが2か所あるのですが、それを見分けた方はおられますか」と皆に尋ねたところ、織部が突如席を離れるや還って来なくなった。夕刻になろうとする頃、馬に乗った織部が戻ってきて、「さきほどご指摘の擬宝珠は橋の両端のものと見分けました」と言うのを聴いた利休は「その通りです」と答えるのをを聴いていた一同は、織部の執心の深さに感嘆したという。

 

前にも書いた通り、当時、優れたものを見るには実際に現物を見届けるしか方法がなかったため、美に執心する当時の人たち、とくに茶人と目されているような者たちの努力は対象の幅も広く、何にでも貪欲に好奇心を働かせ吸収していたようだ。

 

秀吉の小田原での北条戦が片付いて一同が京へと還る途次のこと。このときも利休と織部が駿河の波打ち際に馬を打たせてしばし波の打ち寄せる景色を眺めていたが、織部に「この景色を見ていて新しい茶の工夫が涌いてきませんか」と問う。何事かと怪しむ弟子に「この眺めをもとに、私は京へ帰ったらこれを新しい風炉灰の景色に試してみるつもりです」というのを聴き、絶えざる利休の工夫の様子を目の当たりにして敬意を新たにしたという。

 

それにしても、後年の中井の取り出した擬宝珠は、数十年前に利休、織部が折り紙を付けたとおなじ擬宝珠だったのだろうか。

 

歴史の面白さを感じさせる格好の例といえる。

 

  • ※ 瀬田の唐橋は琵琶湖が南で絞られて川となるところに掛けられた、当時巾8m長さ600mの日本三大橋の一つ。親柱の数だけでも100本は下らないだろう。京の地へ入るための第一関門となるため神功皇后の昔から東西の大勢力決戦の舞台となってきた。もう少し上流にあったのを信長が今の位置へ今の規模で架け替えたのが1575年。その後秀吉、家康と戦で焼かれたのを修復したほか、交通量が只ならないので傷みも速く、幾度も架け替えている。

 

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柱一本の驚き

 

5年程前のこと、古建築を訪ねる旅行で仲間とともに、日本最古といわれている奈良の石上(イソノカミ)神宮へ行った。

 出雲建雄神社拝殿

やや登りの参道を歩み、左に神社の正門を見つつ右を見ると階段数段を上がったところに出雲建雄(イズモタケオ)神社とそれと向き合う形で拝殿がある。

これが今回の話の対象だ。

 

この横長の拝殿の屋根の下に左右に分かれた部屋が蔀戸を巡らして固まる中、その中央がぽっかり空いて土間となり、ここに立つと目の前の一段高い健雄神社社殿に向かって拝礼する形になる。

それだけでもすでに吹き抜ける風の中に立つような感性を表現した意匠の拝殿なのだが、ここの柱がさらに見事に、例のあの共通のセンスを体現しているのを発見するに及び、一同絶句。

 みな一様に、これをなんと表現したものか。

 

 

一瞬後には、見るもの皆思わず「おお、数奇屋だァ!」と声を上げた。

まったく意外なところで見せられた感動に騒然。

 

時代でいうと1300年創建の鎌倉の作、国宝。柱寸法で85角メン7ミリというところか。

 

重い桧皮葺きを支えているとは思えないほどの軽やかな姿が、けなげにも好ましい。手に触れられる状態で覆堂に入れられもせず健全な様子で建っていることにも驚きだ。このときを待っていてくれたようで、おもわず触れてしまう。

とき既に夕暮れで、別れを惜しみつつ帰ってきたことだったが、今回旅行の最高の収穫という者が多かったのも宜べなるかな。

柱一本がこんな伝染力をもっているとは。作った棟梁はえらい。

 

さきに古典のなかの数奇屋として高野山壇上伽藍にある不動堂(国宝)を発見してはいたが。

この不動堂*は平安末期、内親王の住居だったとの説もあり、流れるような庇のラインを見せる小振りで優しい建築遺構だが、残念なことに近年周囲に柵が設置されてしまい、以前のように履物を脱いで広縁に座り往時をしのぶというようなことも難しくなってしまった。

 

こちらの国宝拝殿も、いずれ同様な扱いになることは明らかだ。

日ごろ数奇屋の感性を自問しているあなたに、ぜひ早めに訪れる事を薦める。そして、これに数奇屋を感じてもらえたら、たいへんうれしい。不動堂3

 

*不動堂の前の別格本山明王院(日本三大不動のひとつ赤不動を伝えている寺。他は京都青蓮院の青不動、三井寺の黄不動)を宿坊にして早朝散歩で訪れると、朝もやの中、無人の遺構を堪能できる。

 

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桃山茶人の学習の凄さ

玉澗「洞庭秋月」お茶会に参加した者がその時の相客や使われた道具、出された料理などを後の心覚えに書き留めたものを茶会記と呼んでいる。これらをみていると茶道草創期の茶人の貴重な生きた姿を垣間見ることが出来、そこから様々なことが想像されて、飽きることがない面白さだ。

 

利休当時の堺の茶人仲間であった松屋や天王寺屋の茶会記をはじめ、九州博多の神谷宗湛の茶会記などをみると、拝見に出された名物類の道具や表具などの姿、形から寸法まで事細かに書かれていたりする箇所がある。形姿は印象に残るとしても、寸法となるとどうしてこれを計測できたものか。

記録を読み始めた頃はなぜわかるのか不思議に思っていた。

いまになると、いくつか類推できることがある。

 

一つは利休が日ごろ懐中していた愛用の竹製の、小ぶりの物差しが現存しているということをその後知ったことと、いまひとつは畳の目幅がだいたい5分(15ミリ)なのを見当にしたであろうということだ。

 

当時は自分の記憶ひとつが名物を見たという事実を伝える唯一の手段であるから、様々な方法で記憶を鍛えている当時のひとの記録のすごさには圧倒される。

博多の大商人で茶人神谷宗湛の日記など、床に掛けられた絵(玉澗の洞庭秋月図)の構図から、書かれている賛の文字、印の位置と形、はては表具の裂地の色・模様まで克明に記録していることに驚かされる。(なぜ分かるかと言えば、宗湛が見た時は天王寺屋の所有だったが、同図はその後徳川家・前田家と伝世していまは文化庁所蔵品として現存し、比較できることではっきりしているからだ。)これは宗湛に限らず他の茶匠の会記でもほぼ同様にいえることで、記憶で持ち帰り記録するということが日常茶飯事の習慣だったのだろう。

 

茶点前の学習でも見て覚えるのが建前であったから、ビデオや教本がある今と違い、教える人ごとに点前も変わっていて、江戸期に入り茶書の形で流派の点前詳細を伝え出すことが盛んになると、なおのこと流派性が固まることが起こるのであろう。

 

形のより正確な保存と伝達の工夫に紙型(切り型)というものもあり、たとえば茶入の姿の断面を同寸大に型紙を切り取って作り、これを持たせて朝鮮や中国に発注するということも行われていた。こうして作られた当時の切り型も現存していることで、それがどういうものであったかもはっきりしている。

 

利休の阿弥陀堂釜は、利休が人から頼まれて創意したデザインを、切り型にして釜師へ渡し作成させたのが起こりという。このとき出来てきた釜を見た利休は、余りにみごとな出来だったので依頼主に渡すのが惜しくなり、そのまま自分のものにしてしまったという話もついている。

 

この項つづく

 

 

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清原家:長泰と忠興とガラシャとマリア

人物誌で一休み

 

三斎細川忠興は父・幽斎細川藤孝が明智光秀とともに織田家へ仕官して以来、生え抜きの秀吉武将だが、むづかしい性格の男だったようだ。

無類の癇癪もちで家臣下女を切り捨てた話もあるくらいだから、相当のかわりもので交際も限られていたろう。この忠興がなんとあの平野長泰とは馬が合い、誘い合って茶会に出かけたり、茶会の中止されたことを伝えに忠興が長泰を訪ねたりしている。この二人、実は共通の血縁をもっていたことから気心が知れる仲になったのだ。

 

それは前にも紹介した京の公家・清原家の血で、幽斎の母が二代前の清原当主の妹、兄であるその当主が長泰の祖父という関係だ。

つまり長泰と忠興は曽祖父を同じくするまた従兄弟。時代が下ってもこの両家は行き来があり、京の船橋家(長泰の次世代あたりから清原家の称を船橋に改めている。)とも交際が続いたという。このあたりの関係はやさしくみやびで、うるわしい。

 

この関係は二人のゆききにとどまらない。

明智の娘たま、ことガラシャの輿入れにあたり、忠興はたまの奥頭として清原の現当主の娘(長泰の従妹)を招き、就任させている。いと、というこの利発な娘はたまの信頼を得て、気軽に出歩けない(忠興は嫉妬深いため)たまの代りにたまの意を受けて宣教師への聴聞を重ね、先ず自らが洗礼(洗礼名マリア)を受け、続けてガラシャ入信の手引きをすることになる。

 

関が原戦の前、石田三成が忠興の関東出向中を幸い、たまを人質にしようとしたことから居残った屋敷の者たちと共にたまは自害することになるのだが、いと(マリア)をその場から逃がしている様子がある。

これは忠興への配慮からで、忠興が大事にしている清原家、その清原からの預かり者であるいとを傷にしたくないこと、自害を禁ずる耶蘇の規律を破ることを自分ひとりにとどめること、また日ごろ信頼する賢明ないとから事の顛末を忠興に伝えさせるため、ということであったろう。更には、いとが公家の出であることから、武家の慣習に従う必要はないということだったかもしれない。どこをとっても、たまの挙措には隙がない。

 

 

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数寄屋の色付・2

改めて数寄屋の色付けを考えてみる。

 

新築の木部を古色で仕上げるということは、古色を出すことで見る者に何らかの美観を訴えるという期待があるからだろう。

 

これはいまの住習慣にないことなので我々の感覚では直ぐには納得しにくいが、利休が数奇屋に檜を嫌ったことと関係するのかもしれない。

檜は肌に油成分があってよい鉋で仕上げた肌には磨いたように光がある。そんな檜なので色付けをしても杉ほどの吸い込みの味わいがなく、どんな仕上をしても桧本来の派手な明るさが消えることがない。それほど強い木である。

一方の杉は夏目冬目の肌の違いから、色付けすると夏目の吸い込みは濃く、冬目の木理は塗料を跳ね返して輝くような木本来の艶を出す。黒ずんだ木肌に杉の冬目が浮き立つように輝く。本聚楽土の沈んだ壁と古色はなじむであろう。利休はこれを愛したか。

「黒きは古きこころ」とは利休が秀吉へ投げかけるコピ-だが、同じ心が働いているのだろう。

 

寺院や古民家の材に見られる、時代の付いたつやのある黒さを、削り立てた新材のもつ清らかさ、すがすがしさより良いとして、あえて黒い色付を施した桂離宮の建築群の作者の心境を考えてみる。

それまでの公家建築にない古色付であるなら、親王たち公家も利休の残していった古びを愛する美意識を受け継いだということになるだろう。金の茶室で初めて宮中に入った茶の湯文化が、ここへ来てまた、利休の古き心に共鳴しているのだ。

 

作る側から言えるのは、杉という材料は百材百様で、木が違えば肌・色・木目はまったく違うから、黒っぽい色で塗れば全体を或る統一感で纏められる、という古色付けの利点もあるだろう。

だが古色付けの盛んだった江戸期の色付技法がどのようなものであったか、となると、すでに伝承は途絶えていて全く知るすべがない。柿渋、漆、油煙、弁柄、亜麻仁油等々候補があるが、配合・手順など決め手はない。

 

茶道文化の停滞期の文化文政期に大阪の煎茶趣味が爆発的に流行るが、江戸でも茶屋の数奇屋を中心に、空前の好景気を受けた俄か分限者のパトロンたちが、今までにないふんだんに銘木を使った銘木数奇屋を求めるブ-ムが起きた。銘木のゆえに色付けせず白木での価値を味わう習慣ができたために、ここで色付けの伝統が終わったのだ、とは早川正夫教授の説である。

 

かつて建築志望の若手から絶大な人気のあった建築家故白井晟一も木材に色付けを施すことが常であったが。(その色は緑青に近い金属色を溶いて薄く伸ばした様な色であった。)手法と狙いは多分にかつての色付けの伝統を意識していたようだった。というのも、かつて小生修行時代の数奇屋工務店へ依頼住宅の打合せにみえたおり、「御社では造作にどのような色付けをしていますか。」と問われ、一同驚かされたことがあった。色付の伝統がまだ数寄屋世界には日常的に生きている、と思われていたのだろう。現況を伝えるこちらも残念であったが、色付けの伝統がこの世界に絶えて久しいのも現実であった。

 

 

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数奇屋の色付け

 

かつて白木と思われていた桂離宮が解体の過程で、じつは黒っぽい塗料の色付けがされていたことが判った、という事件があった。

わが国の奈良時代の住まいを扱った歌のなかの「黒木」という言葉を、皮付丸太のことであろうと解釈していたのが、案外白木に色付けのことを指していたのかもしれない可能性がでている。

 

黒木を国文学では皮付丸太と説明するが、「皮を剥いたら黒く見えないから、黒木という以上皮付きだった筈だ」、というのがその理由だろう。実際には杉・檜などはきれいに皮を剥けたであろうし、第一皮のついたままの杉、檜を住宅にそのまま使っていたと考えるほうが不自然だ。

 

宮殿・寺院の丸柱などは檜の皮を剥いだ上で槍鉋(ヤリガンナ)で表面をさらに丸め整えるので仕上がりは白くなる。黒木と言ったのは皮を剥いたままの甘皮が残った薄茶色の肌を、宮殿の白い柱と比較して表現したものに違いない。今で言うあて丸太やミガキ丸太に近いものではあるまいか。

 

利休の発意に帰せられる茶世界の事物は多いが、茶室の色付も、利休が始めたということになっている。それまでは民家などで、渋や漆を木部表面に塗る地方もあった。利休の待庵では殆どの柱は丸太で、目立つのは床柱が大面を削って点々と木目を見せていることだが、削り面は少ない。柱以上に気になるのは造作材の杉で、方立、鴨居、窓枠、など、これを古色として黒く色づけするのは、現代なら躊躇するところだ。

 

小間茶室ていどの規模であれば、土壁の渋い色との同化もあり、皮付き丸太と造作の色付もさほど気になるまいが。これが規模の大きい桂離宮のような住宅となると、さすがに丸太で纏める事は難事で、丸太の四方を削って作る面皮柱を中心に工事が纏められているので、それだけ削り面が並ぶと造作の白さが目立ち、さらに色合せが必要になってきたことだろう。

 

何のための色付けかといえば、渋・墨や漆を塗布することで虫害と腐食の防止効果を期待できるということを合理的な理由として納得できても、結局わからないのはそれを美しい、好ましいと思っていたのはどういうわけか、と言う点だ。その疑問は時代が下った江戸期の、色付けを恒常的に行っていた世相のもつ美意識についても言えることだ。

 

そして興味深いことには、江戸のある時期までは茶室の材料に色付けを施すことが一般的にも行き渡っていたが、いつの頃からかその習慣(というか美の感じ方)が失われていったらしいことだ。つまり色付をしなくなっていったのだ。その例は、江戸初期に利休の「色付イロツキ書院」とよばれていたものが、途中何度かの改変を経て、いまは白木の書院となっている。表千家の残月亭九の間(ココノマ・18畳のこと)だ。

 

この項、つづく。

 

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