清原家:長泰と忠興とガラシャとマリア

人物誌で一休み

 

三斎細川忠興は父・幽斎細川藤孝が明智光秀とともに織田家へ仕官して以来、生え抜きの秀吉武将だが、むづかしい性格の男だったようだ。

無類の癇癪もちで家臣下女を切り捨てた話もあるくらいだから、相当のかわりもので交際も限られていたろう。この忠興がなんとあの平野長泰とは馬が合い、誘い合って茶会に出かけたり、茶会の中止されたことを伝えに忠興が長泰を訪ねたりしている。この二人、実は共通の血縁をもっていたことから気心が知れる仲になったのだ。

 

それは前にも紹介した京の公家・清原家の血で、幽斎の母が二代前の清原当主の妹、兄であるその当主が長泰の祖父という関係だ。

つまり長泰と忠興は曽祖父を同じくするまた従兄弟。時代が下ってもこの両家は行き来があり、京の船橋家(長泰の次世代あたりから清原家の称を船橋に改めている。)とも交際が続いたという。このあたりの関係はやさしくみやびで、うるわしい。

 

この関係は二人のゆききにとどまらない。

明智の娘たま、ことガラシャの輿入れにあたり、忠興はたまの奥頭として清原の現当主の娘(長泰の従妹)を招き、就任させている。いと、というこの利発な娘はたまの信頼を得て、気軽に出歩けない(忠興は嫉妬深いため)たまの代りにたまの意を受けて宣教師への聴聞を重ね、先ず自らが洗礼(洗礼名マリア)を受け、続けてガラシャ入信の手引きをすることになる。

 

関が原戦の前、石田三成が忠興の関東出向中を幸い、たまを人質にしようとしたことから居残った屋敷の者たちと共にたまは自害することになるのだが、いと(マリア)をその場から逃がしている様子がある。

これは忠興への配慮からで、忠興が大事にしている清原家、その清原からの預かり者であるいとを傷にしたくないこと、自害を禁ずる耶蘇の規律を破ることを自分ひとりにとどめること、また日ごろ信頼する賢明ないとから事の顛末を忠興に伝えさせるため、ということであったろう。更には、いとが公家の出であることから、武家の慣習に従う必要はないということだったかもしれない。どこをとっても、たまの挙措には隙がない。

 

 

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数寄屋の色付・2

改めて数寄屋の色付けを考えてみる。

 

新築の木部を古色で仕上げるということは、古色を出すことで見る者に何らかの美観を訴えるという期待があるからだろう。

 

これはいまの住習慣にないことなので我々の感覚では直ぐには納得しにくいが、利休が数奇屋に檜を嫌ったことと関係するのかもしれない。

檜は肌に油成分があってよい鉋で仕上げた肌には磨いたように光がある。そんな檜なので色付けをしても杉ほどの吸い込みの味わいがなく、どんな仕上をしても桧本来の派手な明るさが消えることがない。それほど強い木である。

一方の杉は夏目冬目の肌の違いから、色付けすると夏目の吸い込みは濃く、冬目の木理は塗料を跳ね返して輝くような木本来の艶を出す。黒ずんだ木肌に杉の冬目が浮き立つように輝く。本聚楽土の沈んだ壁と古色はなじむであろう。利休はこれを愛したか。

「黒きは古きこころ」とは利休が秀吉へ投げかけるコピ-だが、同じ心が働いているのだろう。

 

寺院や古民家の材に見られる、時代の付いたつやのある黒さを、削り立てた新材のもつ清らかさ、すがすがしさより良いとして、あえて黒い色付を施した桂離宮の建築群の作者の心境を考えてみる。

それまでの公家建築にない古色付であるなら、親王たち公家も利休の残していった古びを愛する美意識を受け継いだということになるだろう。金の茶室で初めて宮中に入った茶の湯文化が、ここへ来てまた、利休の古き心に共鳴しているのだ。

 

作る側から言えるのは、杉という材料は百材百様で、木が違えば肌・色・木目はまったく違うから、黒っぽい色で塗れば全体を或る統一感で纏められる、という古色付けの利点もあるだろう。

だが古色付けの盛んだった江戸期の色付技法がどのようなものであったか、となると、すでに伝承は途絶えていて全く知るすべがない。柿渋、漆、油煙、弁柄、亜麻仁油等々候補があるが、配合・手順など決め手はない。

 

茶道文化の停滞期の文化文政期に大阪の煎茶趣味が爆発的に流行るが、江戸でも茶屋の数奇屋を中心に、空前の好景気を受けた俄か分限者のパトロンたちが、今までにないふんだんに銘木を使った銘木数奇屋を求めるブ-ムが起きた。銘木のゆえに色付けせず白木での価値を味わう習慣ができたために、ここで色付けの伝統が終わったのだ、とは早川正夫教授の説である。

 

かつて建築志望の若手から絶大な人気のあった建築家故白井晟一も木材に色付けを施すことが常であったが。(その色は緑青に近い金属色を溶いて薄く伸ばした様な色であった。)手法と狙いは多分にかつての色付けの伝統を意識していたようだった。というのも、かつて小生修行時代の数奇屋工務店へ依頼住宅の打合せにみえたおり、「御社では造作にどのような色付けをしていますか。」と問われ、一同驚かされたことがあった。色付の伝統がまだ数寄屋世界には日常的に生きている、と思われていたのだろう。現況を伝えるこちらも残念であったが、色付けの伝統がこの世界に絶えて久しいのも現実であった。

 

 

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数奇屋の色付け

 

かつて白木と思われていた桂離宮が解体の過程で、じつは黒っぽい塗料の色付けがされていたことが判った、という事件があった。

わが国の奈良時代の住まいを扱った歌のなかの「黒木」という言葉を、皮付丸太のことであろうと解釈していたのが、案外白木に色付けのことを指していたのかもしれない可能性がでている。

 

黒木を国文学では皮付丸太と説明するが、「皮を剥いたら黒く見えないから、黒木という以上皮付きだった筈だ」、というのがその理由だろう。実際には杉・檜などはきれいに皮を剥けたであろうし、第一皮のついたままの杉、檜を住宅にそのまま使っていたと考えるほうが不自然だ。

 

宮殿・寺院の丸柱などは檜の皮を剥いだ上で槍鉋(ヤリガンナ)で表面をさらに丸め整えるので仕上がりは白くなる。黒木と言ったのは皮を剥いたままの甘皮が残った薄茶色の肌を、宮殿の白い柱と比較して表現したものに違いない。今で言うあて丸太やミガキ丸太に近いものではあるまいか。

 

利休の発意に帰せられる茶世界の事物は多いが、茶室の色付も、利休が始めたということになっている。それまでは民家などで、渋や漆を木部表面に塗る地方もあった。利休の待庵では殆どの柱は丸太で、目立つのは床柱が大面を削って点々と木目を見せていることだが、削り面は少ない。柱以上に気になるのは造作材の杉で、方立、鴨居、窓枠、など、これを古色として黒く色づけするのは、現代なら躊躇するところだ。

 

小間茶室ていどの規模であれば、土壁の渋い色との同化もあり、皮付き丸太と造作の色付もさほど気になるまいが。これが規模の大きい桂離宮のような住宅となると、さすがに丸太で纏める事は難事で、丸太の四方を削って作る面皮柱を中心に工事が纏められているので、それだけ削り面が並ぶと造作の白さが目立ち、さらに色合せが必要になってきたことだろう。

 

何のための色付けかといえば、渋・墨や漆を塗布することで虫害と腐食の防止効果を期待できるということを合理的な理由として納得できても、結局わからないのはそれを美しい、好ましいと思っていたのはどういうわけか、と言う点だ。その疑問は時代が下った江戸期の、色付けを恒常的に行っていた世相のもつ美意識についても言えることだ。

 

そして興味深いことには、江戸のある時期までは茶室の材料に色付けを施すことが一般的にも行き渡っていたが、いつの頃からかその習慣(というか美の感じ方)が失われていったらしいことだ。つまり色付をしなくなっていったのだ。その例は、江戸初期に利休の「色付イロツキ書院」とよばれていたものが、途中何度かの改変を経て、いまは白木の書院となっている。表千家の残月亭九の間(ココノマ・18畳のこと)だ。

 

この項、つづく。

 

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遠州の仕事ぶり

遠江守小堀政一。遠江守という職名をもらえば誰でも遠州と呼ばれる資格があることになるが、ふつう遠州といえばこの人をさす。

 

その遠州。お茶で有名だが、本業は辣腕の建築官僚として三代将軍家光に仕え、名古屋城、二条城、京都御所、桂離宮などの普請奉行(いまなら建築設計兼造園設計事務所)を次々と勤めあげ生涯を休みなく工事現場周りに過したという人だが、茶人としての評価もあって京都での公家との交際(その殆どは公的な意味合いの強い交際)も長くそこでの習慣・価値判断が習い性のように身に付いていたのであろう。

はなしの本題はここから。

 

久しぶりに江戸へ戻った遠江守へ将軍家光から、江戸城内・家光居所の隣に学問所を新築するようにと下命があった。

手馴れた遠州は段取り良く工事をすすめ、日ならずして完成した学問所へ家光を案内する。ところが思いのほか、家光からきついお叱りを受けてしまう。

将軍の言うには、材は細く、入り口も座敷も低く狭く、あのようなところで落ち着いて学問ができようか、直ちに作り直せ、と。

遠州はたちまち了解する。

 

京の公家世界で学問所といえば平安以来の伝統で格式ばらない柔らかな造作という定型があるが、それを知らない関東の将軍にはただ軟弱なばかりの狭い窮屈なものとしか感じられないのだ。

 

はたして、作り直され書院風に構えた新学問所は好評だったという。(「明良洪範」)

二度作らされた遠州のため息が聞こえてくる。

 

「いき」と「やぼ」を対比した実話とも言えそうだ。

 

 

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権兵衛と忠興・2

秀吉により不遇に置かれた平野権兵衛長泰の心事

 

このように、秀吉の不機嫌に直面しても長泰本人は弁明をせず、度重なる手柄にも自分から褒美を求めることを潔しとしないので、秀吉もかわいげがないと放置したままだった。

しかし、この秀吉という男のずるいところは只で済むならと、恩は着せるところだ。

加増をしない代わりに長泰に、従五位下の位階と遠江守の官位、加えるに羽柴姓と桐紋を下賜している。

 

それでいて朋輩の加藤嘉明・福島正則が四,五十万石になりおおせているのに、わが長泰はいつまでも、ただの五千石でしかない。

では長泰はまったく恬淡としていたか、というとそうでもないようなのだ。

 

さきの加藤が急の加増に遭い信頼できる身内がほしいと相談をしてきたので自分の子飼いを一人与えたことがあり、数年後加藤を訪ねた際、あの者はいまどうしているのかと尋ねたところ、嘉明が妙に言い渋るので強いて聴くと自分と同じ五千石を給されているとのこと。長泰はこれを知ると、ものも言わずその場を去ったというのだ。(「常山紀談」)

 

この話と重なるようだが、こんな話もある。

 

日頃親しくする三斎(細川忠興)の邸へ出向いたおり、いつものように座敷の縁から用を足している長泰の背に、三斎から声がかかる。日頃長泰の石高の低さに同情している忠興である。

「いっそのこと、わしのもとへこぬか。おぬしであれば三万石出す。」とまじめに誘うのへ「やめておこう、そうなれば主であるおぬしの前で、このように気軽に小便もできぬようになる。」と背を見せたまま笑って答えたというが、長泰の心事は複雑なものであったろうし、三斎もつらかったことだろう。

 

長泰の心事は以上に掲げる逸話などから忖度するしかないのだが、それまでの自分の生き方を顧みて、単にくやしいとか落胆しているというのとも違うように思える。

この辺が長泰のわかりにくさであるが、「われ、ことにおいて後悔せず。」を地で行くような姿に思えるのだ。

日頃の快活さに似合わぬ繊細で寡黙な決断があったことだろう。

 

処世はまことに不器用。自分をいつわり、ひとのご機嫌をとるなどは、どうひねっても長泰からは出てこないのだ。

行動に政治性がまったくない。秀吉の真反対に立つ人物像だ。

 

秀吉も自分が嫌われていることは知りつつ、子飼ではあり、度重なる武勲も皆が知るところの武将ではあり、手の下しようがないのだ。

小田原で自分にたてつき、みせしめに耳削ぎ、鼻削ぎにしてなぶり殺した利休の弟子山上宗二のようには扱えないのだ。

 

この平野権兵衛長泰に興味をもち、これを小説に仕立てた作家に、海音寺潮五郎と司馬遼太郎がいる。

 

この項まだつづく。

 

 

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権兵衛と忠興・1

人物誌-平野権兵衛長泰と細川忠興。昨年のNHK大河「真田丸」では近藤芳正演じる平野長泰が剽軽な役どころで人気を博したようだが、この人物については、以前あることが機縁で調べたことがある。井上順の演じた織田有楽斎同様に心外な描き方だったので同情して見ていた。

 

前にも触れた有楽斎についてはまだ触れたいことが多々あるが、それは後日ということにして、ここでは長泰の反対弁論からはじめることに。

 

この人物は秀吉麾下の「賤ヶ岳の七本槍」中でも毛並みの良さは一番で、まずこのことが考証家たちの目に映っていないため、生い立ちも加藤や福島らと同様、土くれのなかでただ荒っぽい育ちをしてきたという扱いで描かれるが、代々の帝(ミカド)へ漢学を進講してきた公家(清原家)の出ながら、父の代に貧窮にあえぐこの時代の他の公家同様、尾張の土豪の養子口に出されたという背景をもっている。

 

その子が長泰なので、田舎にあっても父同様幼少期は家学であった漢学の素養を受けて育った筈である。それでいて若い頃から胆力際立ち、勇猛の評判高かったようだが、これには数代前のご先祖の血があってのことなので、この血筋では偶然とはいえない。(この先祖については後述する。)そんなことも背景に描けないようなら、長泰を簡単に持ち出さないで欲しいくらいだ。

であるから、この長泰に「真田丸」で描かれたような軽さはなく、むしろ沈毅というべき押し詰まった寡黙さが目立つ、何やらわからぬ人柄であったろう。あの秀吉でも御せなかったのだ。

あのドラマのような明るい人格であれば秀吉にも気に入られ、随分と出世もしたことであろう。

 

さらにはその家の貧しさも群を抜いていたようで、賎ケ岳では着る物がなく困った末に紙衣(カミコ 渋を塗って丈夫にした紙の衣)を身に着けて出陣したが、見た者はみな嘲笑ったという。

これが逸話になる位なのだから当時でも相当異例の出来事なのだ。貧しさでも七本槍中一番かもしれない。

あふれる誇りに伴う経済の裏づけがないのだ。これでは相当の片意地と偏屈な性格になっていっても不思議でない。

 

賤ヶ岳では、相手の加勢に入った者もろとも首二つを取るめざましい働きに3千石の知行と秀吉の感状を与えられた。

 

しかし、その後主君である秀吉に言葉を返すなどのことが度々あり、そのたび勘気を受けることが重なり、ある時期は一千石まで家禄を減らされたこともあったが、主だった戦には必ず殊勲を挙げるという働きを加藤・福島らが言い添えるので、さすがの秀吉も渋々許していたというのだ。

 

長泰はいったい秀吉の何が気に入らずそこまで食い下がった物言いを繰り返したものだろうか。その様子を傍から見ていた忠興*などその無欲さにほとほと呆れもし、感心もしたにちがいない。

 

幼馴染で育ち大親友の加藤嘉明は、日頃長泰がその活躍にもかかわらず一向に加増にあずからないことに同情し、あるとき機会をとらえ秀吉にじかにこのことを訴えてみたことがある。

ところが秀吉は「そうであったか」と大笑いし、しかし、「そのつもりはない」という。

わけを尋ねたところ、「第一にあの男のようすが気にくわぬ、決してもの喜びするような男でなく、与えてもきっと嬉しそうな顔ひとつ見せまいし、さりとて自分から願い出るような男でないことはとうにわかっている。であればむりに加増してやる必要もない。」と、にべもない返答であったよし 。

 

*細川三斎忠興:後の熊本藩主。信長、秀吉、家康と仕え、若い頃は気性荒く戦での勇猛ぶりで知られる一方、和歌・立花・能楽や四条流料理点前など文化面の教養も同時代の武将の水準をはるかに越えて高いものを持ち、利休の高弟としても著名で、常に周囲から敬意を払われていた。

父・幽斎と共に足利将軍家の血筋を引く名門であり、長泰とは公家である母系の曾祖父を等しくする血縁で、後年親しく交際を結ぶことになる間柄だ。

 

 

平野長泰の項、つづく。

 

 

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