権兵衛と忠興・2

秀吉により不遇に置かれた平野権兵衛長泰の心事

 

このように、秀吉の不機嫌に直面しても長泰本人は弁明をせず、度重なる手柄にも自分から褒美を求めることを潔しとしないので、秀吉もかわいげがないと放置したままだった。

しかし、この秀吉という男のずるいところは只で済むならと、恩は着せるところだ。

加増をしない代わりに長泰に、従五位下の位階と遠江守の官位、加えるに羽柴姓と桐紋を下賜している。

 

それでいて朋輩の加藤嘉明・福島正則が四,五十万石になりおおせているのに、わが長泰はいつまでも、ただの五千石でしかない。

では長泰はまったく恬淡としていたか、というとそうでもないようなのだ。

 

さきの加藤が急の加増に遭い信頼できる身内がほしいと相談をしてきたので自分の子飼いを一人与えたことがあり、数年後加藤を訪ねた際、あの者はいまどうしているのかと尋ねたところ、嘉明が妙に言い渋るので強いて聴くと自分と同じ五千石を給されているとのこと。長泰はこれを知ると、ものも言わずその場を去ったというのだ。(「常山紀談」)

 

この話と重なるようだが、こんな話もある。

 

日頃親しくする三斎(細川忠興)の邸へ出向いたおり、いつものように座敷の縁から用を足している長泰の背に、三斎から声がかかる。日頃長泰の石高の低さに同情している忠興である。

「いっそのこと、わしのもとへこぬか。おぬしであれば三万石出す。」とまじめに誘うのへ「やめておこう、そうなれば主であるおぬしの前で、このように気軽に小便もできぬようになる。」と背を見せたまま笑って答えたというが、長泰の心事は複雑なものであったろうし、三斎もつらかったことだろう。

 

長泰の心事は以上に掲げる逸話などから忖度するしかないのだが、それまでの自分の生き方を顧みて、単にくやしいとか落胆しているというのとも違うように思える。

この辺が長泰のわかりにくさであるが、「われ、ことにおいて後悔せず。」を地で行くような姿に思えるのだ。

日頃の快活さに似合わぬ繊細で寡黙な決断があったことだろう。

 

処世はまことに不器用。自分をいつわり、ひとのご機嫌をとるなどは、どうひねっても長泰からは出てこないのだ。

行動に政治性がまったくない。秀吉の真反対に立つ人物像だ。

 

秀吉も自分が嫌われていることは知りつつ、子飼ではあり、度重なる武勲も皆が知るところの武将ではあり、手の下しようがないのだ。

小田原で自分にたてつき、みせしめに耳削ぎ、鼻削ぎにしてなぶり殺した利休の弟子山上宗二のようには扱えないのだ。

 

この平野権兵衛長泰に興味をもち、これを小説に仕立てた作家に、海音寺潮五郎と司馬遼太郎がいる。

 

この項まだつづく。

 

 

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権兵衛と忠興・1

人物誌-平野権兵衛長泰と細川忠興。昨年のNHK大河「真田丸」では近藤芳正演じる平野長泰が剽軽な役どころで人気を博したようだが、この人物については、以前あることが機縁で調べたことがある。井上順の演じた織田有楽斎同様に心外な描き方だったので同情して見ていた。

 

前にも触れた有楽斎についてはまだ触れたいことが多々あるが、それは後日ということにして、ここでは長泰の反対弁論からはじめることに。

 

この人物は秀吉麾下の「賤ヶ岳の七本槍」中でも毛並みの良さは一番で、まずこのことが考証家たちの目に映っていないため、生い立ちも加藤や福島らと同様、土くれのなかでただ荒っぽい育ちをしてきたという扱いで描かれるが、代々の帝(ミカド)へ漢学を進講してきた公家(清原家)の出ながら、父の代に貧窮にあえぐこの時代の他の公家同様、尾張の土豪の養子口に出されたという背景をもっている。

 

その子が長泰なので、田舎にあっても父同様幼少期は家学であった漢学の素養を受けて育った筈である。それでいて若い頃から胆力際立ち、勇猛の評判高かったようだが、これには数代前のご先祖の血があってのことなので、この血筋では偶然とはいえない。(この先祖については後述する。)そんなことも背景に描けないようなら、長泰を簡単に持ち出さないで欲しいくらいだ。

であるから、この長泰に「真田丸」で描かれたような軽さはなく、むしろ沈毅というべき押し詰まった寡黙さが目立つ、何やらわからぬ人柄であったろう。あの秀吉でも御せなかったのだ。

あのドラマのような明るい人格であれば秀吉にも気に入られ、随分と出世もしたことであろう。

 

さらにはその家の貧しさも群を抜いていたようで、賎ケ岳では着る物がなく困った末に紙衣(カミコ 渋を塗って丈夫にした紙の衣)を身に着けて出陣したが、見た者はみな嘲笑ったという。

これが逸話になる位なのだから当時でも相当異例の出来事なのだ。貧しさでも七本槍中一番かもしれない。

あふれる誇りに伴う経済の裏づけがないのだ。これでは相当の片意地と偏屈な性格になっていっても不思議でない。

 

賤ヶ岳では、相手の加勢に入った者もろとも首二つを取るめざましい働きに3千石の知行と秀吉の感状を与えられた。

 

しかし、その後主君である秀吉に言葉を返すなどのことが度々あり、そのたび勘気を受けることが重なり、ある時期は一千石まで家禄を減らされたこともあったが、主だった戦には必ず殊勲を挙げるという働きを加藤・福島らが言い添えるので、さすがの秀吉も渋々許していたというのだ。

 

長泰はいったい秀吉の何が気に入らずそこまで食い下がった物言いを繰り返したものだろうか。その様子を傍から見ていた忠興*などその無欲さにほとほと呆れもし、感心もしたにちがいない。

 

幼馴染で育ち大親友の加藤嘉明は、日頃長泰がその活躍にもかかわらず一向に加増にあずからないことに同情し、あるとき機会をとらえ秀吉にじかにこのことを訴えてみたことがある。

ところが秀吉は「そうであったか」と大笑いし、しかし、「そのつもりはない」という。

わけを尋ねたところ、「第一にあの男のようすが気にくわぬ、決してもの喜びするような男でなく、与えてもきっと嬉しそうな顔ひとつ見せまいし、さりとて自分から願い出るような男でないことはとうにわかっている。であればむりに加増してやる必要もない。」と、にべもない返答であったよし 。

 

*細川三斎忠興:後の熊本藩主。信長、秀吉、家康と仕え、若い頃は気性荒く戦での勇猛ぶりで知られる一方、和歌・立花・能楽や四条流料理点前など文化面の教養も同時代の武将の水準をはるかに越えて高いものを持ち、利休の高弟としても著名で、常に周囲から敬意を払われていた。

父・幽斎と共に足利将軍家の血筋を引く名門であり、長泰とは公家である母系の曾祖父を等しくする血縁で、後年親しく交際を結ぶことになる間柄だ。

 

 

平野長泰の項、つづく。

 

 

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紹鴎という人

紹鴎茄子茶入茶史では逸せられない武野紹鴎という茶人は近年研究が進み、今までにないさまざまなことが語られ出して来た人物で、従前の知識の変更を余儀なくされている。

 

堺で皮革商を大きく営む二代目で、早くから連歌(数人が集まり五七五と七七の句を交互に作る歌会)の世界に親しみ、当時の歌学の大御所三條西実隆のもとへ出入りして歌会にも参加した記録はあるが、どうも成功したといえるほどの才能はなかったようだ。ただ、のちの伝承からするとこの実隆から受けた和歌の心をもって、珠光の始めた侘び茶の傾向に着目し更に進めたところに、他の同時代の茶匠にはない紹鴎ならではの選択と独創があった。

歌が象徴する美を、めざす茶の心として示すことができた、というあたりが連歌の功徳と見られようか。(口絵は紹鴎茄子茶入)

 

現在流布している茶系では一口に、珠光・紹鴎・利休とつながってきたように言い、それであれば紹鴎の顕彰は利休が動いてもよさそうだが、実際にはそんなことはなかった。

 

上記の三代系譜は侘茶の進展に大きく貢献した人物三人を時代順にならべてみたという程度の意味でしかなく、利休の師としては紹鴎のほかに数人の名があがるほどで、侘びの継承という以外紹鴎が主たる師とまではいえないようである。

このことは珠光・紹鴎の間については更に極端で、ふたりが対面したことはなかったであろうというのが通説だ。

 

 

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茶室の出入口:にじり口と貴人口

客側の茶室内への入口には、にじり口と貴人口がある。

古い茶室では単ににじり口を設けただけのものが殆どだが、門跡寺院仁和寺の飛濤亭など公家達貴人が利用する席には出入りの便を優先して貴人口だけ、或いは両方を備えた形がまれに見られた。いまでは両方揃うのが近年(いわば)流行の産物である。老齢となり体を折ることに難儀するようになれば、沓脱に履物を脱いで立ったまま席入りできるのだから貴人口は便利に違いないが、さすがにこれだけでは茶室らしさが出ないということで、隅柱を挟んでその隣ににじり口を設けることになる。もっとも東山山麓・皆如庵(伝高山右近作)のように並列した古例もあるが。この場合は殆ど眺めとしての飾りだ。

 

にじり口の方は、摂津は枚方の苫舟トマブネの潜り口を利休が見て面白みを感じ、にじり口を初めて試みたというのだが、たちまちこの形式が茶室標準に組み込まれていった。というのも、にじり口出現以前、庭から茶室への出入りは引違障子を使用しているため茶室内はまだ明るかったのが、にじり口を設けることでこの小さな木戸を閉じれば南向きの壁は光から遮られて、茶室内部の様子は薄暗いものに変わり、にじり上の窓の大きさとすだれの着脱で亭主側の演出が思うように操作できる。この劇的変化が利休提唱の侘茶の方向性と重なって一世に好もしく迎えられたことは、想像に難くない。

 

外部から見た貴人口の一般的形は引違障子だが、桂離宮の松琴亭や遠州の金地院八窓の席など庭からはにじり口があるだけで貴人口はなさそうに見えながら、実は隣室広間から襖引違で茶席に通じる貴人口を設けているという例をみると、当時の貴人とにじり口の相性は好もしくないようだ。堂上公家らの髷を頭の上に高く結い挙げる髪型など風俗上の理由があったことも創造できるが、別に後年、宗旦を尋ねた或る公家(予楽院近衛家煕)が点てられた茶を天目台に載せず普通に出されたことで、自分は貴人なのに相当の礼を受けていないと苦情を申し立てた有名な話もあることで、こういう意識からすると、にじり口からの出入り作法になじまないものが公家世界にあったのはたしかだろう。

 

貴人口は大きな障子引違となることが多いので、とにかく席中が明るい。これも今風で好まれるところだが古典席からみると、外界からの遮断が弱いぶん俗界を引きずり込んでいて、騒がしい印象が否めない。この視点からすると、利休以後の遠州達大名茶室が寂から遠のいたと言われながら、現代の流行茶室に比べればまだしも俗を遮断していて充分求道的でさえあるといえる。

 

茶室も時代に合わせて、古典を読み替えることが求められて来た。

現代では貴人をお迎えする目的で貴人口を作ることは稀であろう。現代的な解釈から席中の思想性を残しつつ、出入りの利便性を向上させる方向を探る必要があろう。

例えば織部の燕庵相伴席風に付属室を設け、ここを庭からの出入りとして障子引違(貴人口の名称は避ける)を付けるなら席内の照度も茶室本来の落着きを取り戻し、寄付を別に用意することが難しい現代の住まい事情でも、ここに客の手荷物を置くなど多目的な使い勝手ができることだろう。

 

 

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明治の数寄屋建築と皇室

明治の日本建築に数奇屋の名作が多数あることをご存知だろうか。どれも大体旧華族や事業成功者が建てたもので、金銀箔の張り壁に絵師が四季花鳥の山水を描き、よく吟味された長大の杉・檜を用いた当時の御殿で、いまでは希少価値を競っている。前田公爵邸、目白椿山荘(山県有朋)、岩崎邸(岩崎弥太郎)、蕉雨園(田中光顕)、白雲洞(原富太郎)、京都の野村別邸、清流亭、対流山荘(伊集院兼常)等々。

 

これに比べると皇室の別荘建築は規模こそ大きいものの内容はまことにさっぱりしたものである。かつて日光御用邸、沼津御用邸とつづけて大改修工事があった折、関係者として近くで立ち会う機会を持ったことがあるが、その内容は質素なもので、貼り付け壁だの、2重長押だのと形式こそ上等だがさほどの良い材料を吟味しているでもなく、いわば普通のものである。時代は明治・大正の代であった。

 

皇室と数奇屋は今でこそ外国接待を主として京都迎賓館や皇居内施設に健在だが、かえって明治・大正・戦前昭和には見られないものであった。

この皇室と明治貴顕のありようの差はなにを語るものであろうか。

日本の皇室が質素であったことに、まことにありがたいものを感じる。

 

 

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有楽という人 その2

有楽(ウラク)の真価について。

有楽が建築に持っていた豊かな創意とバランス感覚、それを彼の茶室の説明とする人はまま居るが、彼が書院建築に見せた数寄屋に通ずるセンスを指摘する人は稀で、それは有楽苑に残されている織田屋形に見ることが出来る。この書院に見られる一見変哲のない中に気付かぬ簡略化(草化)を敢行して過不足ない安定感へと導く才能など、当時では稀有な才能にちがいなかった。

織田屋形も現存しているのは当初のごく一部にすぎないが、全体像への期待と予感には十分なものがある。利休の数寄屋風書院建築であったと思われる聚楽屋敷と、いい対比ではなかったか。後者の現存せぬのが残念だ。

 

有楽の茶室について言えば、織部(オリベ)などに先んじて茶室に相伴席を付けるバリエ-ションを様々試みたり、後年の官休庵(カンキュウアン)に先立ち早くも極(ゴク)わびの2畳遣り違いの席を考案したり、また三渓園春草蘆3畳台目のような多窓茶室の工夫も付けていて、周囲の先を行く唯ならない創意工夫の持ち主であり、あまりに狭い席は客を苦しめるに似る、として二畳半台目の如庵へ行き着いた人である。

 

その来歴に利休の名が出ることはまれで、むしろ自身は晩年にいたるまで利休の師とされる武野紹鴎を慕っていたようだ。没後荒れていた紹鴎の墓域を整備し、つくばい石などの遺品を集め、顕彰碑を立てなどしたほか、晩年紹鴎の子息(紹鴎が54歳で亡くなったときわずかに6歳)が後見人指定を受けた姉婿で茶人の今井宗久から遺産横領にあったときには救済の手を伸ばしている。

 

そういう有楽であるから、利休による草庵化が始まる以前の先輩紹鴎に対して余程の思い入れがあったのであろうが、那辺に心を寄せていたものか、弟子とされる利休に同様の行為がないことでもあり、考えると興味は尽きない。

 

有楽の項、まだつづく。

 

 

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