御簾のこと

御簾のこと:つづき

 

かつては伊予産の葦が最高のすだれ材料であった。

細いが強さがあり、新品でも落ち付いた色味が乗っていて、編み上げた姿の美しさは今では求めようがない。環境の変化で品薄になり、琵琶湖産の弥勒葦が代替品として出始めたが、品質は到底伊予の比ではなく、さらに代替を求めて中国産の天津葦を業者が捜してきたが、細さは条件に合うものの折れやすいなどの欠点からだろう、いまは弥勒が最上等品ということになっている。

 

伊予を知る者からすると、いかにもふわふわと太く、節も大きく、白っぱくれたうす黄色い姿は納得ゆかない。となれば、使えるのは萩か(近頃はこれもめっきり太いが)、薩摩葦か、大神葦(模様が大柄であまり数寄でない)、竹ひご簾ということになってくるのだが。ここらで目の覚める様な意外な材料による思い切った起用法が出てこなくてはなるまい。

 

伊予の良さが上記の通りなので、かつての料亭やお屋敷が改築などで解体されるときは、簾戸のすだれだけを外して洗いをかけたうえで糸を解き、新建具にあわせて再び編み上げることをすすめている。こうして出来た簾戸の、あめ色に変色した伊予簾の良さはまた格別で、もとの糸のあとに伊予のはじめの色が白く残って見えるのも、店の歴史を如実に示して清清しく美しい。

 

以上は夏建具としての簀戸に用いる葭を中心に話題としてきたが、竹の持つ表情の多様さに目を付けて竹ひごをすだれに編んで、簀戸に用い、また室内の御簾として愛用されてきたことに触れねばならない。

 

青竹の皮色を見せて編んだもの(これにも片側全体を青くするもの、それを一本づつ裏表に交互に編んだもの)、晒竹、胡麻竹、煤竹とそれぞれの皮色を使う物、実の部分だけを削りだして用いる物、これにも丸と角とあって編みあがりの姿が全然異なる。また身を火で焦がし色を付けて編むものと工夫次第で様々に選べるのが楽しくもある。

 

 

このほかにも御簾は周囲を覆う裂(キレ)の選定があり、それにつく房色と吊り金物の選定が待っている。そして案外影響の大きいのが編糸の色と種類だ。これらのことは、実地について観るしかないだろう。

室内の間仕切り・結界としてのすだれ(竹ひご)と、外部用の軒すだれ(薩摩葭、萩等)では、求められる表情がまったく異なる。

 

 

室内の御簾の吊り方と使用法(扱い作法)にも時代の変遷があって、使われ方が多様になってきているのが現状だ。かつては座敷・廊下境に御簾を吊るなどということはなかったが、雑誌などを見ていると、今ではそんな珍妙な眺めに出会うことがある。そこは簀戸でしょうと言いたいが、一本1520万近くすることがこういう混乱した眺めを作り出しているのであろう。

 

誤った言葉の使い方でも、それをはやり言葉のように大勢が使い出せば、やがて辞書にも載るようになり、違和感すら消えてしまうという例はいくらでもあるので、伝染力のある店舗設計や公共建築を生業ナリワイとする同業者には心してほしいと願うのだが・・。

 

 

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平野長泰の祖先

人物誌:平野権兵衛長泰つづき

 

昨年のNHK大河「真田丸」以来、net上で平野権兵衛長泰の記事が俄然増えてきているものの、まだまだその家系を尾張の土豪横田氏の分かれで北条時政子孫、などとして済ましている紹介が殆どで、これを見ては当ブログでも更に触れない訳にはゆかないと、しつこく今回の記事となった。

およそ数寄屋とは別の話題なので、興味のある方のみお付き合いください。

 

平野権兵衛長泰の父長治の兄・枝賢は公家清原家の当主として帝の学問の師を勤める身であり(尾張の土豪の跡取りと帝の師が実の兄弟。この落差が凄い!)これはこれで凄いことなのだが、その5代ほど前の当主を清原業忠といい、この人物がのちの清原家の家風を作ったと言えるほどの八面六臂の大車輪の行動を開始する。細川幽斎・忠興親子の母系もこの血筋から出ている。

 

概して世の混乱を鎮めた武家政権が安定期に入ると、それまでそれを横目に見ていた京都の帝が決まって自らも妙な自覚に目覚めるものらしい。さきには後鳥羽帝、のちには後水尾帝(武力を持っていたらやったことだろう)もその候補だろう。

南北朝の始まりも、初めは皇室の継承権の主張で対立した二皇統が、鎌倉幕府の出した交代で皇位に就くという調停案を両派了承したことで、数代はその通りに平和裏に過ぎていたが、順番が後醍醐までやってくると、この仁がとうとう武家を押さえて天下に号令しようという野心を抱いてしまう。

後醍醐が出す訴えに全国の武家が二つに割れ、もとより公家も割れてしまったことで、全国的な戦いが始まってしまった。

 

南朝・後醍醐側について京都を飛び出した清原業忠の活躍は、自ら武器を執り尹良親王(コレナガ 後醍醐の孫)を奉じて関東から北陸さらに吉野へと幕府・北朝方相手に転戦する日々の中で展開してゆく。

しかし南朝側には利あらず、ついに勤皇方の土豪が集まる尾張津島で親王を隠すようにして、再起を企るための土着の生活が始まる。このときの土豪集団の中の一つ、平野家で世話になる中、自らも平野を姓として隠れ、所領の一部も譲られた。

これが後年、業忠の子孫・長治(長泰の父)が再び津島の平野家に養子として入ることになる伏線となっている。

 

やがて北朝との和解が成立し業忠も都へ戻り、清原当主として帝の側近としての公家生活が始まる。儒学者としての業忠が優れた業績をあげるのはここからで、やがて全国の学者たちがこの業忠を師と仰いぐようになったという。公私ともにあらゆる栄誉を受けるようになった晩年は、職を辞して剃髪、環翠軒を名乗りさらに正二位まで授かった。位人臣を極めたというべきか。清原家中興の祖とよばれる所以である。

その血を享けた子孫として長泰も、忠興も、この先祖を想っては、ひそかに誇りとしていたことであろう。

 

学者家系でありながら、武に熱くなり血の騒ぐところ、細川幽斎も忠興も、平野権兵衛長泰までも並の武将たちと一味ちがうのは、この背景ゆえに相違ない。

 

 

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簀戸と御簾の季節に

簾戸の入れ替え

 

爽やかな5月が終わり、そろそろ梅雨に入ろうとする季節の変わり目を先取りするように、毎年赤坂や新橋、芳町、人形町の料亭へ男衆78人づつの2組が二手に分かれて簾戸の入れ替えを一斉に行ったものであった。以下は、小生修業時代の風景だ。

 

その仕事は、昨年の秋口にはずして綿袋に丁寧に梱包された簾戸を納戸から取り出すことから始まる。

かつて同梱した樟脳の香がかすかに匂う。(樟脳を入れてあるのは簀戸の編糸を虫が喰うのを避けるため)入れ替わりにはずした障子を袋に収めてまた秋口の出番まで納戸で休息させるのだ。

 

座敷境の襖がはずされ御簾が吊られる。

白い障子が薄茶に透き通った簾戸に入れ替わった様子はいかにも風の吹きぬけてゆく風情を見せて、初夏らしい爽やかさが感じられて良いものだ。

 

このように座敷からほとんどの障子が簾戸に置き換えられるが、ただ欄間障子のみはそのまま残されるのが通例だった。

今に思うと、これは江戸数奇屋独特の風儀らしく、西の京・大阪ではすべての障子を簀戸に交換してしまうようだ。

 

前者の理由について考えてみると、これは壁の少ない座敷は見た目にも落ち着かないとされた教えと同じで、白い障子のもつ座敷らしさを夏の間も欄間に残したかった江戸者の美意識なのだろうし、京より北に位置し周囲の大平野と海を控えた江戸は実際暑さ厳しい盆地の京ほどにはいまひとつ避暑対策がゆるくて済んでいる。

後者の徹底は、畳に油団(ユトン)*やアンペラ*を敷き詰めてひんやりした足裏の感触にまでしばしの涼を与えて対策とする程、夏の暑さを徹底して避ける工夫をしている。こんな傾向からも、江戸風に障子を残す発想はないであろう。

尤も、冷房設備の発達したいま、これは好みなので、もはやどちらでなければというものでもあるまい。

 

こうして舞台の衣更えをしおおせて感謝されながら無事帰る一団の気分のよさは、ほかに喩えようがない。秋口にはまた建具屋さんと経師屋さんをつれて返ってこなくてはならない。(ここで障子の建てつけを直し、傷んだ障子紙を張り替えるのだ)。

それはうまく組まれたサイクルだったが、料亭も減りこんな習慣も昔の話になりつつあるのは時代というべきか。

 

*油団:ゆとん。和紙を亜麻仁油と柿渋で何重にも張り重ねて一枚の敷物にしたもの。

*アンペラ:籐の皮を薄く剥ぎ、一分ほどの細幅で座敷ほどの大きさに編み、渋紙で裏打ちした敷物。

ともに、関東では殆ど見ることもない、京で発達した独特の敷物である。

 

この項つづく。

 

 

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三斎と遠州

三斎と遠州

 

古田織部と細川忠興(三斎)とは利休の同門でそれなりの心の通いはあったと思うのが普通だが、師の茶の受け止め方から言えば、36歳差のこの二人はほとんど反対を向いていて、年若の三斎の方がかえって利休の茶に対し保守的だった。

奈良の漆屋・松屋の残した茶人の言行録「松屋会記」別名「茶道四祖伝書」には松屋代々の出会った大茶人四人、利休・織部・三斎・遠州の言行が章別に整理されて見る事ができる。

 

師利休の侘び茶の方向を忠実に伝承・実行して行こうとした三斎と、横のものを斜めに、ときには切り取って逆さに貼り付けてでも奇を出すことに専心した織部がいて、利休はこの両者を、特に織部をとがめるでもなく最後まで受け入れ次代の天下宗匠を尋ねた人にそれは織部であろうとまで認めていたことの意味を、考え込まざるをえない。

 

小堀遠州研究の森蘊(オサム)氏によれば、師と異なり三斎は、織部の茶の行き方をやはり嫌っていたようで、このことは織部の弟子の遠州に対しても隠すところ無く、更には遠州をもあからさまに嫌っていたという。それは単にあの織部の弟子だからということではなく、武将たるものが作事普請や茶事などで上の覚えをめでたくし立身するなどは共に語るに足らない、という気分だったようだ。

 

10歳の少年のころ利休に会ったことを大事な思い出として語り残した遠州は、意外にも師織部の道具を持つことはなかった一方、利休の道具への敬愛を伝える逸話はいくつか伝わっている。

そんな遠州からすると、利休膝下で茶歴を積んだ16歳年長の三斎に対しては、50歳以上も離れていた織部とはまた違う畏敬の念を払っていたであろうことは十分察せられる。

 

一方の三斎はというと、茶人以前に武人としての心がけをうるさく周囲に諭す人物で、ことのほか日頃の武事の備えと嗜みを重く見ていたことは他の逸事にも頻繁に現れており、隣藩黒田家の家風を嫌い敵視してそなえるところがあったのも、その気分の延長であろう。茶の指導と普請に明け暮れている遠州を許すには、相当足りないものがあったらしいのである。

 

いったいに、徳川将軍家からは譜代同様、それ以上の気の遣われようで扱われている細川三斎忠興であるが、あるとき三斎が将軍家から、遠州が普請中の京の作事を見てきてくれるよう依頼を受けて出向いた現場でのこと。

黙って見て回る三斎の後を、五,六間あとから遠州がかがむ様にして付いてくるのを無視して声も掛けようとしないのを三斎の息子忠利が気に掛け、あのように遠江守が、というのも気に掛けず次々と見回って歩いてゆく。

そのうち耐えかねたものか、遠州はその場をそっと離れていったという。

 

このときの隠居・三斎の仕様はなんともいやなやり方だが、ではまったく遠州を無用の存在と見ていたかというと、そこはちょっと違うのだ。

 

あるとき遠州が一万両ちかい借財で破綻寸前となり、将軍に発覚すれば取り潰し必至の危機を幕閣の重職たちが知り、あれだけの有能な人材をむざと廃人に落とすわけにはゆかないと、借財の肩代わりを重職二人に加わえ三斎にも声を掛けて参加してもらい、救ったことであった。

三斎にとり、武人の生き方として足りないものを感じさせる遠州であるが、一方では、これほどに幕府の必要とする人材であることを認めるだけの別の眼も持っていた、ということを示した逸話であろう。

 

 

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