漢学生宣長と和文の出逢い

宣長の国学回帰事件

伊勢松阪の本居宣長は古事記の注釈書「古事記伝」と源氏物語研究で知られる学者である。「もののあわれ」にこそ我が国固有の美があり、近年の学者の「からごころ」(人本来の自然な素直さに反する理屈一方の分別心。漢学的思考。)から生じている物事の解釈の誤りを書物で訴え、その過程で生じた上田秋成などとの論争でも有名だ。

 

この宣長が十代のころ家業の医学修行のため、京の漢学塾で漢文に明け暮れる毎日であったが、あるとき専門書からはずれた国学系統の文献「御堂関白日記」を紐解いているとき、ある事件の描写を読んで、その文章の美しさにひどく感銘を受けたことが、漢学を捨て国学へ回帰した契機となったという。もともと十代の頃に国学を齧っていたというから、漢学に移ってからも未練はあったのだろうが、話はここからだ。

 

わが国の中国文学の泰斗・故吉川幸次郎は日頃、本居宣長を畏敬しその文学研究の方法を自身の方法の検証に使う人であった。宣長の漢文読解能力の高さは、当時の諸書中でも抜きん出ているというのが吉川の評価だが、その漢学書生時代の宣長が国学に出遭い回帰したという記事を、当時の学生宣長が使っていたノ-トにみつけて興味を惹かれ、漢学者である自身が追体験を試みたという。

 

件の文章の内容を簡単に言うと、一条帝が屏風を新たに作ったが、そこの絵に合わせる歌が一つ足りないことがわかった。そこで急遽、豊かな和歌の才で知られる御息所 ミヤスドコロ(これがあの百人一首の伊勢であり、美貌でも知られていた。)に一首作って貰うことにしたが、才あふれ華やかな御息所の住まいへ人を遣わすのに並みの男では侮られ、後日帝自身が恥をかくことになる。

誰を選ぶか側近と相談した結果、当時の女房達に評判の美貌と挙措の見事な、或る青年貴族が招かれて指名を受ける。

この青年は装束を直すと、さっそく御息所邸を訪ねて行き来意を告げる。対面の座へと通された公子から改めて帝の意向を聴いた御息所が奥へ入り歌のできるまでの間、そこの若女房たちから酒食の接待を受けてほろ酔いとなった公子が、めでたく戻るまでの宮中から御息所邸内部の様子を、評判の美青年を迎えた女房達の興奮や応酬、美しい調度の有様などを心理と実写を交えて、こと細かく色とりどりに描いてゆく、という内容だ。

 

 

くだんの文章を読み味わってみて吉川が納得したことは、たしかに王朝美をまざまざと浮かび上がらせるその文章が達意で、十分に美しかったこと。

更に思うことは、この描写を漢文で表現しようとすれば、意味は通っても優美繊細な平安美の情趣を伝えることまでは不可能で、国文でのみ出来得ることだと認めざるをえなかった、と。

 

そして思うそうだが、漢文学徒宣長がこの文章からある思いを持ったとしたら、それはおそらく自分の感じたことと同じ思いであったろう、と。

即ち、日本人でしかできない、また、わかりえないこの道に分け入ることもまた素晴らしい魅力がある、と。

 

こちらは宣長でも吉川でもないが、なにやら、豊かでうれしくなるはなしだ。

感興を起こされた方はぜひ、上記「御堂関白日記」の該当箇所を読んでいただくと良い。(ここに引用するにはちょっと長くなり過ぎて、お見せできないのが残念!)

 

 

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師の跡を継がぬ弟子

師匠の名跡を継ぐ者、必ずしも師匠の道を継がず、ということ。

 

その1 珠光が後継とした宗珠が、珠光没後は侘び茶と方向を異にした行動をとっていくこと。(数江教一「わび」)

 

その2 宗祇が地方への旅の途次発見した藤原定家筆「小倉山荘百人一首」の半分の50枚を、まとめて都へ持ち帰り、三条西実隆の鑑定を経て一躍脚光を浴びた。 このとき、「天の原」の色紙は紹鴎の所有となり自ら天下一と鑑定をつけたもので、やがて紹鴎没後に松屋久好(紹鴎女婿)、利休と所有者を変え、利休から秀吉に披露された。 

・あまの原 振りさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも(阿倍仲麻呂)

 

のちにこれを入手した利休であったが、紹鴎の鑑定に同意せず、 

・やえむぐら 茂れる宿の さびしきに ひとこそ見えね 秋は来にけり(恵慶法師)

 

の色紙を天下一としたのだった。師とはいえ納得しかねるものが利休にはあったのだ。

 

二首のもつ色調の違いは、いかにもふたりの茶境の違いを示しているようではないか。紹鴎びいきの有楽斎であればどう思ったであろうか。

 

 その3 これは師弟であった利休と織部の茶についても言えることで、利休同門で利休の茶の祖述者となる細川三斎がその織部の茶の行き方に反発していたことは以前に書いた。

 

その4 その織部と師弟の関係にあった遠州についても言えることであり、遠州は織部の道具をもつことはほとんどなかったし、掛け物の使用をみても織部は墨蹟の使用を避けていたが、遠州はむしろ有楽斎が始めていた新傾向に合わせるように墨蹟を用いる事を好んだのだった。(余談だが、意外にも利休が墨蹟を使ったのはその百会記中38回にすぎない。つまりこの点では織部は師の行き方に忠実であったことになる。)

 

上記その2の補足ながら、ついでに記しておく。

利休が師でもある紹鴎に対し、十全な心服をおいていなかったと思わせる逸話がこの外にもいくつか伝わっているのは、残念かつ意外なことではなかろうか。(尤も修業時代の千宗易には時代により数人の師の存在が知られているのだが。)

 

・弟子の宗二が紹鴎の茶と誰某(失念!)の茶をくらべるとどちらが上か、と尋ねたところ、利休いわく「囲碁でいえば紹鴎が一目おく」(つまり紹鴎が劣る)と云ったと。

・利休が紹鴎に付いていたころ、紹鴎が身分のあるものには平然として追従を使っているのを見て、自分との違和感をもった、と伝わる。

・紹鴎なきあと、師から依頼された息子宗瓦の指導にあたってあまり誠意のある態度とは言えない振る舞いのあったことなど。もっともこの宗瓦は親の残した財産もあることで、かなりわがままな育ち方をして手を焼かせたらしい。

 

といったことなどだが、更に、これに遠州と石州の師弟の関係を加えることもできそうだ。

師の奇麗サビに対し片桐石見守の茶はもっと利休のわびに原点回帰してゆくような趣を見せている。

茶の湯が創意を必要としている以上、時には新しい芽が吹き、逸脱と見える方向に成長してゆくことがあるのも、他の諸芸術同様に当然起こり得ることなのだ。祖述者三斎の律儀な行き方こそ稀というべきか。

 

 

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平手正秀の茶とは

信長のもり役平手政秀のこと。

 

江戸初期に湯浅常山という武士の書いた「常山紀談」という本が、岩波文庫にある。

戦国武将の逸話集だが、この中の話だ。

信長の近習たちが集まりかつての家老・平手正秀を評して、勢力盛んないまのお館様の姿を見ないで自害してしまうなどつまらないことをしたものだ、と言うのを信長がたまたま耳にして大変激怒し、今日自分のあるはかつて政秀があのようにきつく諌めてくれればこそ身の持ちようを変えられたからだ、いまあれほどの名家老はどこを探しても得られるものではない、と言って叱った、という意味のことを記録している。

このように後年まで政秀を懐かしく慕い、信長にとっても特別の人だったのだが、その政秀の娘を13歳下の弟・織田有楽斎が正妻としている。

 

以下は、織田有楽斎の茶修行に平手政秀(信長の守役)の影響があったのではないか、という考察。

 

公家の記録に、天文2年(1533)山科言継 ヤマシナコトツグが尾張の代官・織田信秀を訪れた際、接待した織田家家老平手政秀の数寄振舞いの見事さに「かかる田舎にこのような人物がいるとは」と感嘆したことを記している。 「言継卿記」

他の記録では信秀の代理でたびたび宮中へも献上金などを届ける役目を果たしており、自身も京の公家衆のもてなしを受けることで、堂上の習慣や趣味を習得していたものであろう。

さらには複雑な「宮中典故」をも政秀が学んでいたのではないかと思えるのは、後年に有楽斎が秀吉から将軍御成りの復元を依頼されていることから、室町将軍の儀礼典故の詳細を知るものとして当時目されていたことが窺い知れ、それは有楽があるとき突然学んだと言うものでなく、以前から身近に学ぶ機会と人物に出会えたからと考えるのがより自然に思えるからだ。

このような人物を傍らに見、かつは娘を妻に迎えるほど近くに居た将来の茶人有楽に、影響のなかったはずがない。 

 

数寄の本場京の公家をうならせる政秀の数寄とはどのようなものを、想像すべきだろうか。

 

当時は連歌が盛んだった時代で、各地の武将達も連歌を通して、全国を巡る連歌師を中心に世間の情報を収集していた。尾張地方には公家の三條西実隆や、宗祇、宗長、肖柏といった超一級の連歌師たちがたびたび呼ばれているし、少し以前では宗祇に古今伝授をさずけた豪族・東常縁 トウノツネヨリ が美濃にいる。地方性を感じさせないほど京都文化が盛んに入ってきているのだ。

 

利休の師でもあった武野紹鴎は20代のころ三条西実隆について連歌に打ち込んでいたが、それがこの政秀の時代で、好き(数寄)といえばまだ歌好きを意味していた頃だから、平手政秀の茶も、和歌の伝統浅からぬ尾張の地で和歌世界を趣向とした茶会を展開していたかと思える。

 

床の間に和歌をかけて鑑賞することは、紹鴎に始まるといわれる。

それまでは茶会での掛物の使用は殆ど重視されておらず、掛物があっても禅宗祖師の墨蹟を師影に見立てゝ床の間に掛ける程度であったのを、紹鴎はその状況に飽き足らず、和歌世界の美意識(無常感)を正面に立てることで珠光提唱の侘び世界に没入することを企図したものであろう。

 

ただこの工夫は、そのあとの利休の時代になるとしばらく途切れたようだ。というのは利休自身も、また次世代となる織部も、掛物の使用を控えて重視していなかったからだが、こういう利休の茶風が一世を風靡した下でも、ひとり有楽斎ばかりが茶会での掛物を多用している記録をみると、掛物は有楽に始まったと言えるほど特筆に価するとのこと。因みに、有楽に続くようにして次代の遠州も、師の織部と異なり掛物を重視した茶会趣向を展開するようになる(以上は統計をとった熊倉功夫氏の説)。これは有楽・遠州の茶風を思えば、歌の世界-王朝文化への共感がそうさせるものなのであろうと思わざるをえない。

 

名古屋はいまもお茶の盛んな地で、名のある茶室、焼き物、和菓子など、上質の物産を取り揃えた上での独特の文化をもつが、これは水運と木曽林産を背景に豊かな財を積んだこの地の江戸期以前からの伝統であろう。そういう視点で尾張を見直すと、単に京近傍の文化圏ではない独自の歴史があることを見定めたい。平手政秀はその流れの中に立つ、有力な澪となるに違いない。

 

有楽斎が後年紹鴎の茶を顕彰することに熱意を燃やすのも、他の茶人にはない曽ての尾張の和歌世界(岳父政秀の記憶にからむ時代)を懐かしむ思いがあった為ではないだろうか。

 

 

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炉灰の話

茶室の解体保存、或いは炉灰の話。

 

先日知り合いの設計事務所から聞かされた話だが、茶室解体を任せた工務店の監督に一言の注意を忘れたことから、炉の灰を処分されてしまったという。

施主の落胆ぶりはそばで見ていられない程酷いもので、針の蓆にいる気持ちとはあれだったと、この手ひどい失敗をしきりに反省していた。

 

無論、工事現場の人間が炉の灰の底取りができるわけのものではないから、炉縁・炉壇と同様、炉灰にも保存措置が必要なことだけでも、茶室を扱う者には知らせるべきだった。

だがそもそも、その程度の経験しかない工務店に茶室を任せたことが問題にはちがいない。

 

数奇屋の工務店選びは、監督・大工だけでなく、チ-ムとしてタッグを組むことになる左官・建具・経師・瓦師から設備業者まで一様に茶室への理解と施工精度が問題で、その力量を事前に見極めておく必要がある。

その時になって探し回るということはあり得ない。

茶室への理解といっても、職人が茶人であることまで期待するわけではなく、まずは予断のない学習心と謙虚さをもって望んでくれれば充分である。

 

さて、今日の灰の話の本題へ。

 

茶人は炉の灰をつくるために毎年土用の炎天下を汗みずくになって、せっせと灰作りに励んで炉開きの時期に備える。

先生クラスの6,70の年配の方なら、かれこれ3,40年の歳月を掛けて作り上げてきた大事な灰である。

手入れのよい灰なら古いほど良い。

茶道具屋へ行けば市販の風炉灰を買うこともできるが、それ程に手入れをされた灰の何が良いか。

 

まず黄褐色となった色がよい。市販の灰は青灰色をしている。

炉中で炭の火を浴びた灰はそれだけでも、序々にではあるが年々色づいてゆく。

さらに夏の手入れの時期に番茶や丁子の煮汁を掛けて色づけしたあとに、何段階もの入念な篩い作業があり、これを毎年繰り返していくことで滑らかな微細の粉に変わってゆく。

このような作業を繰り返して、とにかく手塩に掛けた自分好みの灰へと育ててきたものなのだ。

 

次の良さは灰型を作る際の、鏝の決まりが気持ちよい。

そこまで育った灰は、灰型を作ったときにぴったりとして鏝の決まりが良い。

これは灰の粒度が長年の手入れと篩いを経て非常に微細な滑らかさを持つに至ったことからくる結果なのだから、幾十年の歳月そのものの価値ともいえるものだ。

これを捨てられたら、もうその工務店に茶室を頼む気が失せて当然だ。

 

有名な話で、茶室が火にかかれば、茶室の主はまず何より炉の灰を取り出して逃げる、という位、よくできた灰は茶人の愛着のこもった一財産だ。

 

以上は建築とは無関係の裏の話のようではあるが、知らずには済まない話でもある。

 

 

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抱一の井戸

 

酒井抱一の井戸

 

江戸中期、琳派の画人として著名な粋人に酒井抱一がいる。光琳の向うを張った「風神雷神図」も良いが、同じ屏風の裏側に描いた「夏秋草図」が爽やかで好きな絵だ。

夏の午後、突然の雷鳴とともに激しい夕立の一時が過ぎ去ると、あとには一陣の冷ややかな風が庭先の垣の蔦を吹き上げて軒内に入ってくるという描写が涼しさを呼んで、目が洗われる。

 

さて、この抱一があるとき深い井戸を掘らせたが、あとから砂で埋めて浅く見せたという。

 

この話を山崎正和は「月も雲間のなきは嫌にて候」と同様の、アイロニカルな構想に美を捉える日本人好みの発想、ととっているが違うように思う。

この逸話は粋にかかわるモノとして解釈すべきで、深井戸は金のかかる仕事なので、そのお大尽ぶりの臭さを消すため、砂を入れ浅く見せたのである。

(酒井抱一は姫路藩酒井家の藩主の弟ながら江戸生まれの江戸育ちでもあり、お大尽とはそのことで、画業が本職というわけではない。)

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この種のはなしは、お茶の逸話として時々目にするものだ。

 

本当はかなり神経を使っているのに、動揺する様子が気恥ずかしいのか、それ程でなくても底にテレがあるのか、まるで自然を装おうとする行為。

 

お茶の舞台は、自然の推移に趣味を寄せつつも、山居に似せた露地作りや旬のしつらいに‘らしさ’を装うことが避けられないという、裏の楽屋を持っている。そこでは自然と人為のバランスが気付かれぬように、うまく納まっていなくてはならない。 

 

利休は他人の行為に人為を感知すると、とたんにそのあとのことに関心がうすれて嫌気がさすようで、ぷいと帰ってしまったりする。それでいて、逸話の利休は自分の仕掛けた人為は上手に隠そうとしている。

うまく隠せればいいのか。

諸書に残されているこの矛盾は、創作はしたいが、自他の人為を扱いかねている利休の当惑が記録に残ってしまったのだろう。

 

いつも釜をかけていると評判の茶人を訪ねると暫く待たされて入った茶室の炉壇が実は冷えていたのに興ざめして帰ってしまった話とか、偶然の到来ものでと出された料理が、実はこの日の茶会のために用意し昨夜早かごで届いた品であるのがわかるや、興ざめして早々にかえったという逸話など、利休のこの種の話はよく目にする。招く方も気苦労であったろう。

 

逆に利休の側からは、露地の掃除は落葉を掃き清めたあと、改めて枝を揺すり2,3葉を散らせることで自然らしくなると教えたり、秀吉が見たがっていた朝顔の花群を全部刈ってしまって一輪だけ見せたりなど、人為の極みを実行している。そうかと思えば、ノ貫 ヘチカン という侘び茶人に招かれ時には趣向とわかっていながら落とし穴に自ら落ちて泥だらけとなり、用意された風呂で着替えて、この時は嬉しそうにされるがままになっている利休もいる。

 

一転これが名人の残した人為となると、かなりの不自然でもそのまま鑑賞に堪えている利休がいる。松屋名物の除煕の鷺絵(義政から拝領した珠光が書院広間用に表具したもの。)を小間の床に掛かるよう長さを詰めたいと依頼すると、あの珠光の表具したものをいじるなど論外で、ただ垂らして余った下裾は巻いて置けば宜しいと拒絶して取り合わなかったという逸話など、利休の珠光に対する敬意を示した話として有名だが、利休お気に入りの織部なら迷わず切り詰めたかもしれない。

 

これとよく似た話だが、遠州の利休への敬意を表す逸話として、利休切継 キリツギの茶入れ(割れた陶器を漆で継ぎ復元することが切継。金色漆で継ぐことが多くこれを金継ぎという。)の切継手直しを相談された遠州が、利休がよしとして残したものを改めるなどすべきでない、と取り合わなかった。この時の遠州の脳裏には利休の逸話がよぎっていたことだろう。

 

 

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煎茶席と数奇屋の岐路

煎茶席と数奇屋の岐路

 

同じ茶文化といいながら、煎茶趣味と抹茶の数寄屋趣味がどうしてここまで違っているのかと考えると、それぞれが辿った歴史を思って感慨が尽きない。

 

数寄屋をこよなく愛でる我々からすれば、数奇屋趣味は奈良(求める共通のセンスがあったと辿れる上限としての)時代の昔から日本民族に固有のものだろうと考えたいところだ。

けれどそれ以前の中国の詩文を伺うと、著名なところでは陶淵明(六朝)の帰去来詩や王維(初唐)の竹里館詩などにそれと認定したくなる美意識が伺えるのはさすがに世界帝国であった中華らしく、洗練された文化の歴史があるのだ。

 

と言うことから数歩譲ってその影響を受ける部分があったにせよ、わが上代の教養人たちもそれを受けて我が国風儀に咀嚼してゆく感性があったことは確かなので、白居易詩が大ブ-ムであった嵯峨朝の頃(BC.800頃)は、両者共通といえぬまでも相似た趣味感性を持っていたことになる。

 

その目指すところは、俗界の喧騒・競争社会を離れて、遠く山林での閑居をしきりに思うという共通の理想世界。というのも当時の教養人社会は一方で中央官庁の役人としての縛りの中にあった事情と深く関連していよう。

この共通の憧れとなっている世界が、時代と共に徐々に具体性を帯びてくる。

 

 

大陸では、宋時代の陸羽の登場と自然山水を眼前に彷彿とさせる北宋画巨匠時代の到来で、老荘の古典や禅を背景とした山水画の世界に憧れるという方向性が与えられ、この夢想世界と結びついた茶趣味があちらでは陸羽の煎茶世界として集大成された。そこでは山水の画が掛けられ、仙境に憧れる漢詩の鑑賞と詩作の会が進行する。

 

こちらでは閑居に憧れる表現世界が、鎌倉末頃には小倉山荘の定家卿が主導する和歌世界の無常観というフィルタ-を経て変遷してゆく一方で、新時代の寺院社会が育んだ大陸の禅や老荘に拠る文人画家の表現に見る大陸の新感性とが並び立つ鎌倉後期を迎え、それぞれの理想世界を実現しようとする手段と方法にすくなからぬ違いが生じてきたが、一方ではこれらが結びついて数寄屋の感性を多様に色付けし、やがては茶の湯の登場となってゆく。煎茶の登場は遅い。

 

わが国の煎茶史上の主だった人物というと江戸以降となるが、石川丈山、松花堂、売茶翁、寛政以降の学者・文人等が挙がるが、いずれも自由人として主取りの仕官を避けて自活の生活に徹したのは、大名茶人・富裕商人のひしめく抹茶界と大きく異なるところだ。

煎茶趣味の席には石川丈山の詩仙堂、松花堂昭乗の滝本坊、頼山陽の山紫水明処、などが挙がる。席主の精神の根底には儒学漢学の素養と老荘への親近が共通にあるであろう。言うまでもなく、こちらは和歌とは無縁である。

 

煎茶席にあり数奇屋に見ない著しい特徴は、変木・奇木を好んで用いていることであろうか。

 

竹の使用箇所・頻度も数奇屋を越えるであろう。リアルな山深さは数奇屋の求めるところではないので、かかる趣向の席に出会えば煎茶の趣味を反映した主人であることに気づく。そして基本には中華の文芸が根を張っていることが欠かせない。

 

 

同じ茶を楽しむと言っても、茶葉そのままを粉にして味わう抹茶と新茶を湯に浸潤させた液を味わう煎茶とは、味わい方の違いそのままに、浸る世界(茶席)も、想念を凝らす世界(思想)も、別のものと言わざるを得ない。

 

 

 

 

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