梅雨時の竹に苦労

竹の扱い

 

風土と材料ということでは、京都を中心とした関西では竹を建築造作材として多用しているので、虫害も相当に多いと思われるが、あまりニュ-スになることがないのはありふれたことだからだろうか。

 

 

かつての修行時代、栃木の山中深く山主のもつ日本住宅と合わせるに、竹を使った門塀工事を指揮したことがあった。

 

梅雨時でもあったことから、このときは連日青竹の表面にびっしりと発生するカビの洗い落しに手こずって悩まされた。

 

カビの乗った竹はその後どんなに洗っても表面の黒ずみは消えないどころか、洗いを重ねる毎にますます黒ずみがまし、引渡しどころではない。

今なればこそ、そこに発生している問題の抱える諸条件が見えるのだが、当時はnetがあるわけでもなく、工事の進捗にばかりに気をとられ、解決法が皆目わからない。

 

この状況ではまず、水分を多く含んだ青竹の外部への使用に問題があろうし、一日中霧や雨の絶えない6月の環境下を工期に充てていることが竹を扱う上で不適である。

その通りで、結局気候の安定するころを待って取替えとなったことであった。

晒竹のように表面が枯れてある程度落ち着いた材料であれば、カビの付着も新竹ほどには出ないので、竹の使用に当たっては、材料の選定と施工時期の選定が大事ということを痛く学んだ。

 

カビとは別に、竹の使用では虫の発生に悩まされることも念頭に置いておかねばならない。

 

築10年ほどたった店舗の天井から音がしている、という施主からの知らせで急行してみると、なるほど天井垂木からカリカリというかすかな音がしている。

その室は3ヶ月ほど前に改装したばかりの2階の一室であったが、周辺をじっくりと観察してみると、畳の上にかすかに微細な粉のようなものが落ちているのを発見。

害虫駆除の専門家に見せてタケクイムシの一種であることが特定でき、問題の垂木を交換した上で専門の駆除屋さんを手配し、天井全体の消毒をしたうえで半年ほど様子を見て落着したことがあった。

 

割と聞く話として、寒中に採った竹でないと虫が付きやすいという。また節周辺の実は糖分が多く虫が好み、皮と通常の実の部分は食害に遇いにくいともいうが、これには十分な根拠がなく比較的な経験談の類だ。その辺の竹藪から採った竹を建築材にする施主や工事店はまれで、みな専門店・銘木屋からの仕入れであり、これらはいわば竹の専門屋ばかりだ。この信用と信頼関係からなお虫害が出たとしたら、これは事故として受け止めるしかない。

 

という訳で、こんな事故はめったに出会うことではないが、材料の中でも竹の使用は人一倍気を使うものだという話である。

 

 

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遠州と石州

 

小堀遠州のエピソ-ドその3

 

遠州の茶会記録から(茶道四祖伝書)

 

遠州の時代が過ぎると石州(大和小泉の大名・片桐石見守 通称、石州)の時代となるがこれはこの26歳差の先輩後輩が出会ったころのことらしい。遠州の催した朝の茶会で、正客となった石州が茶入れの仕覆拝見を請うと、なんと亭主の遠州は仕覆を中柱から外すや、石州の前にポンと投げ出した、という。

 

記録にはそう記すだけなので、その瞬間、どんな感情がそこに行き交ったかまではわからないが、礼を重んずる茶会の場で、まずこんなことは起こりそうもない。

石州はむろん、この記録を残した松屋をはじめ相客となっていた者たちも、さぞや驚いたことだろう。

 

しかしこのとき62歳の遠州にも同情するのは、この会の二日前の晩にも書院で殆ど同じ顔ぶれでもてなしをしており、石州はそれだけ気安くなってもよいとしたものか、しかし、亭主である遠州がこの日の朝会では飲茶が終わるや声もかからぬ先から道具を仕舞い付けてどんどん片すなど、始めからハイペ-スで手前を進めている師匠でもある大先輩の様子など意に介さぬ風で、遠州に遠慮なく三種(茶入れ、仕覆、盆)の拝見を申し入れたり、もう一度炭注ぎを見たいと言ったりしている。これに対し遠州は終始返事をせず、無言のうちに省略した形で応じていたが、そういう気分の中で上記の「仕覆ポンの事件」が起きたのだった。

 

この行動には遠州のどこかが遂に切れたような様子が窺がえるのだが、この石州と並び称されたもう一人の大名茶人・舟越伊予守永景とは共に幕閣内では、遠州の後継者として目され、両者同じく普請奉行でかつ茶の弟子だったという伝承もある。

この日の石州は殆ど連日のようにして遠州の接待を受けているわけで、弟子として師に甘えて、わがままを出しているようにも感じられる。

 

茶道史家桑田忠親が見る所では、常識ある茶人遠州がこんなふるまいをみせるには相応の理由があったはずで、これは遠州による弟子石州への批判的教えであろう、ということになる。

つまり、形式を整えるばかりで隙のなさに腐心する石州のありかたを見て、茶とは人がするものでどのようにでもできるものだということを、正客石州の繰り出すリズムをそのたびに「さあ、どうする?」とあえて崩してみせているのではなかろうか、と。こんな教授法もあったのだろうか。 

 

遠州が世を去り十二年ほどのち、家綱に召された石州は柳営茶道の規矩作成を下命され、晴れて将軍茶道指南の地位にのぼり天下宗匠となる。

以後は、幕府の標準茶式となった石州流に転ずる諸藩が相次ぎ、各藩・各地で分派も生まれたが、他流でこれだけ分派が生じているのも例がない。認可の事実を初めて伝書の形にしたことが石州流の伝播に勢いを与えたともいわれる。

しかし、家綱没後は将軍家指南の沙汰も止み、復活することもなく明治を迎えることになる。

 

我々が歴史を辿る際にその時代を代表する茶人でつい時代を捉えてしまうが、この遠州の陰に頭角を現してきた石州のごとく、まだほかにも舟越伊予守など同時代に優れた見識の数奇大名がいたことを忘れがちだ。

 

 

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御簾のこと

御簾のこと:つづき

 

かつては伊予産の葦が最高のすだれ材料であった。

細いが強さがあり、新品でも落ち付いた色味が乗っていて、編み上げた姿の美しさは今では求めようがない。環境の変化で品薄になり、琵琶湖産の弥勒葦が代替品として出始めたが、品質は到底伊予の比ではなく、さらに代替を求めて中国産の天津葦を業者が捜してきたが、細さは条件に合うものの折れやすいなどの欠点からだろう、いまは弥勒が最上等品ということになっている。

 

伊予を知る者からすると、いかにもふわふわと太く、節も大きく、白っぱくれたうす黄色い姿は納得ゆかない。となれば、使えるのは萩か(近頃はこれもめっきり太いが)、薩摩葦か、大神葦(模様が大柄であまり数寄でない)、竹ひご簾ということになってくるのだが。ここらで目の覚める様な意外な材料による思い切った起用法が出てこなくてはなるまい。

 

伊予の良さが上記の通りなので、かつての料亭やお屋敷が改築などで解体されるときは、簾戸のすだれだけを外して洗いをかけたうえで糸を解き、新建具にあわせて再び編み上げることをすすめている。こうして出来た簾戸の、あめ色に変色した伊予簾の良さはまた格別で、もとの糸のあとに伊予のはじめの色が白く残って見えるのも、店の歴史を如実に示して清清しく美しい。

 

以上は夏建具としての簀戸に用いる葭を中心に話題としてきたが、竹の持つ表情の多様さに目を付けて竹ひごをすだれに編んで、簀戸に用い、また室内の御簾として愛用されてきたことに触れねばならない。

 

青竹の皮色を見せて編んだもの(これにも片側全体を青くするもの、それを一本づつ裏表に交互に編んだもの)、晒竹、胡麻竹、煤竹とそれぞれの皮色を使う物、実の部分だけを削りだして用いる物、これにも丸と角とあって編みあがりの姿が全然異なる。また身を火で焦がし色を付けて編むものと工夫次第で様々に選べるのが楽しくもある。

 

 

このほかにも御簾は周囲を覆う裂(キレ)の選定があり、それにつく房色と吊り金物の選定が待っている。そして案外影響の大きいのが編糸の色と種類だ。これらのことは、実地について観るしかないだろう。

室内の間仕切り・結界としてのすだれ(竹ひご)と、外部用の軒すだれ(薩摩葭、萩等)では、求められる表情がまったく異なる。

 

 

室内の御簾の吊り方と使用法(扱い作法)にも時代の変遷があって、使われ方が多様になってきているのが現状だ。かつては座敷・廊下境に御簾を吊るなどということはなかったが、雑誌などを見ていると、今ではそんな珍妙な眺めに出会うことがある。そこは簀戸でしょうと言いたいが、一本1520万近くすることがこういう混乱した眺めを作り出しているのであろう。

 

誤った言葉の使い方でも、それをはやり言葉のように大勢が使い出せば、やがて辞書にも載るようになり、違和感すら消えてしまうという例はいくらでもあるので、伝染力のある店舗設計や公共建築を生業ナリワイとする同業者には心してほしいと願うのだが・・。

 

 

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三斎の鞘

 

茶人の学習2

 

香・茶・花・料理・絵画・器物とおよそ生活全般を包含して鑑賞に興じる桃山茶人の誕生。

初期の茶人たちは己の美意識を高めて行く上で、日頃どんな修養方法をとっていたのだろうか。

 

細川三斎は利休の茶の高弟だが、あるときは小刀の鞘の形にこだわり、ようやく出来上がった自慢の鞘を見せて利休に批評を乞うたところ、「私も以前から古道具屋の店先を覗いては束にした鞘の中から良いものがあると求めていましたが、こんな鞘はいかがでしょう。」と利休が持ち出したものをみると、見たこともないほどの形のよさであった、という話なのだが、物がもつ形の快さを学ぼうと思えば、カタログも写真集もない当時はこんな方法で実地にあたって経験をかさね、学習するしかなかっただろう。

 

ここでは愛用の刀の鞘の形にこだわりを見せる三斎だが、日頃から用意のあった利休の視点は実はそれとは同列にできない深刻なところから発しているので、これを外してはこの話が軽くなるばかりだ。

 

信長時代の三茶堂の中で紹鴎の名物道具を受け継いだ今井宗久・堺屈指の財力を背景とした津田宗及に比べ、当初これといった道具を持たなかった利休が趣向の茶を仕掛けることで周囲から一目置かれ頭角を現してきたというのが、近年の利休像となってきている。

 

この名物を持たない利休にとって創作の趣向こそが、利休茶を世間に認めさせる原点となったというのだ。

茶会の一回一回に繰り出す工夫こそが自分の評価を決めるすべてと心がけて時の権力者に仕えている、という覚悟が日々の生活に息づいていたことだろう。

 

ここで思い当たるのは、台子伝授に当たっての秘伝としたのが「茶に決まりはなく、創意と工夫を第一とせよ」(「貞要集」)ということであり、高弟たちへの教えが「人と違うこと仕出すよう心掛けよ」(今のところ出典不明ではあるが)ということだ。

利休の日頃の生き方がこの推理通りであれば、相当過激な利休像が髣髴としてくる。

 

たしかに利休の茶会記録を見ると、名物道具にこだわることなく新作の国焼きや自然物の杉・竹を道具に仕立て、花卉の扱いを工夫し、伝統の飾付けを省略変更するなどして、利休流儀を作っている実態がある。

さらには茶道具以外にも利休好みとされて伝わる物は多い。

たとえば腰掛の円座(藁編みの敷物)あり路地箒や水屋道具、畳の縁から布の色指定までとにかくその関心の向く先の幅広さは他の茶人を遥に超えた所で渉猟し、独歩している観がある。

 

たえず新作・新趣向をさぐってあらゆることを吸収していたと思わせる話はこの項でも多数紹介してきたところだ。利休が弟子織部の型破りを受け入れる素地は、日ごろ趣向に心を砕くこの姿勢からくるのだろうし、必ずしも侘びに共感していない織部とは方向が異なるが、利休は弟子たち以上の試行錯誤を試みていたのはたしかだろう。

 

 

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平野長泰の祖先

人物誌:平野権兵衛長泰つづき

 

昨年のNHK大河「真田丸」以来、net上で平野権兵衛長泰の記事が俄然増えてきているものの、まだまだその家系を尾張の土豪横田氏の分かれで北条時政子孫、などとして済ましている紹介が殆どで、これを見ては当ブログでも更に触れない訳にはゆかないと、しつこく今回の記事となった。

およそ数寄屋とは別の話題なので、興味のある方のみお付き合いください。

 

平野権兵衛長泰の父長治の兄・枝賢は公家清原家の当主として帝の学問の師を勤める身であり(尾張の土豪の跡取りと帝の師が実の兄弟。この落差が凄い!)これはこれで凄いことなのだが、その5代ほど前の当主を清原業忠といい、この人物がのちの清原家の家風を作ったと言えるほどの八面六臂の大車輪の行動を開始する。細川幽斎・忠興親子の母系もこの血筋から出ている。

 

概して世の混乱を鎮めた武家政権が安定期に入ると、それまでそれを横目に見ていた京都の帝が決まって自らも妙な自覚に目覚めるものらしい。さきには後鳥羽帝、のちには後水尾帝(武力を持っていたらやったことだろう)もその候補だろう。

南北朝の始まりも、初めは皇室の継承権の主張で対立した二皇統が、鎌倉幕府の出した交代で皇位に就くという調停案を両派了承したことで、数代はその通りに平和裏に過ぎていたが、順番が後醍醐までやってくると、この仁がとうとう武家を押さえて天下に号令しようという野心を抱いてしまう。

後醍醐が出す訴えに全国の武家が二つに割れ、もとより公家も割れてしまったことで、全国的な戦いが始まってしまった。

 

南朝・後醍醐側について京都を飛び出した清原業忠の活躍は、自ら武器を執り尹良親王(コレナガ 後醍醐の孫)を奉じて関東から北陸さらに吉野へと幕府・北朝方相手に転戦する日々の中で展開してゆく。

しかし南朝側には利あらず、ついに勤皇方の土豪が集まる尾張津島で親王を隠すようにして、再起を企るための土着の生活が始まる。このときの土豪集団の中の一つ、平野家で世話になる中、自らも平野を姓として隠れ、所領の一部も譲られた。

これが後年、業忠の子孫・長治(長泰の父)が再び津島の平野家に養子として入ることになる伏線となっている。

 

やがて北朝との和解が成立し業忠も都へ戻り、清原当主として帝の側近としての公家生活が始まる。儒学者としての業忠が優れた業績をあげるのはここからで、やがて全国の学者たちがこの業忠を師と仰いぐようになったという。公私ともにあらゆる栄誉を受けるようになった晩年は、職を辞して剃髪、環翠軒を名乗りさらに正二位まで授かった。位人臣を極めたというべきか。清原家中興の祖とよばれる所以である。

その血を享けた子孫として長泰も、忠興も、この先祖を想っては、ひそかに誇りとしていたことであろう。

 

学者家系でありながら、武に熱くなり血の騒ぐところ、細川幽斎も忠興も、平野権兵衛長泰までも並の武将たちと一味ちがうのは、この背景ゆえに相違ない。

 

 

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簀戸と御簾の季節に

簾戸の入れ替え

 

爽やかな5月が終わり、そろそろ梅雨に入ろうとする季節の変わり目を先取りするように、毎年赤坂や新橋、芳町、人形町の料亭へ男衆78人づつの2組が二手に分かれて簾戸の入れ替えを一斉に行ったものであった。以下は、小生修業時代の風景だ。

 

その仕事は、昨年の秋口にはずして綿袋に丁寧に梱包された簾戸を納戸から取り出すことから始まる。

かつて同梱した樟脳の香がかすかに匂う。(樟脳を入れてあるのは簀戸の編糸を虫が喰うのを避けるため)入れ替わりにはずした障子を袋に収めてまた秋口の出番まで納戸で休息させるのだ。

 

座敷境の襖がはずされ御簾が吊られる。

白い障子が薄茶に透き通った簾戸に入れ替わった様子はいかにも風の吹きぬけてゆく風情を見せて、初夏らしい爽やかさが感じられて良いものだ。

 

このように座敷からほとんどの障子が簾戸に置き換えられるが、ただ欄間障子のみはそのまま残されるのが通例だった。

今に思うと、これは江戸数奇屋独特の風儀らしく、西の京・大阪ではすべての障子を簀戸に交換してしまうようだ。

 

前者の理由について考えてみると、これは壁の少ない座敷は見た目にも落ち着かないとされた教えと同じで、白い障子のもつ座敷らしさを夏の間も欄間に残したかった江戸者の美意識なのだろうし、京より北に位置し周囲の大平野と海を控えた江戸は実際暑さ厳しい盆地の京ほどにはいまひとつ避暑対策がゆるくて済んでいる。

後者の徹底は、畳に油団(ユトン)*やアンペラ*を敷き詰めてひんやりした足裏の感触にまでしばしの涼を与えて対策とする程、夏の暑さを徹底して避ける工夫をしている。こんな傾向からも、江戸風に障子を残す発想はないであろう。

尤も、冷房設備の発達したいま、これは好みなので、もはやどちらでなければというものでもあるまい。

 

こうして舞台の衣更えをしおおせて感謝されながら無事帰る一団の気分のよさは、ほかに喩えようがない。秋口にはまた建具屋さんと経師屋さんをつれて返ってこなくてはならない。(ここで障子の建てつけを直し、傷んだ障子紙を張り替えるのだ)。

それはうまく組まれたサイクルだったが、料亭も減りこんな習慣も昔の話になりつつあるのは時代というべきか。

 

*油団:ゆとん。和紙を亜麻仁油と柿渋で何重にも張り重ねて一枚の敷物にしたもの。

*アンペラ:籐の皮を薄く剥ぎ、一分ほどの細幅で座敷ほどの大きさに編み、渋紙で裏打ちした敷物。

ともに、関東では殆ど見ることもない、京で発達した独特の敷物である。

 

この項つづく。

 

 

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