三斎と遠州

三斎と遠州

 

古田織部と細川忠興(三斎)とは利休の同門でそれなりの心の通いはあったと思うのが普通だが、師の茶の受け止め方から言えば、36歳差のこの二人はほとんど反対を向いていて、年若の三斎の方がかえって利休の茶に対し保守的だった。

奈良の漆屋・松屋の残した茶人の言行録「松屋会記」別名「茶道四祖伝書」には松屋代々の出会った大茶人四人、利休・織部・三斎・遠州の言行が章別に整理されて見る事ができる。

 

師利休の侘び茶の方向を忠実に伝承・実行して行こうとした三斎と、横のものを斜めに、ときには切り取って逆さに貼り付けてでも奇を出すことに専心した織部がいて、利休はこの両者を、特に織部をとがめるでもなく最後まで受け入れ次代の天下宗匠を尋ねた人にそれは織部であろうとまで認めていたことの意味を、考え込まざるをえない。

 

小堀遠州研究の森蘊(オサム)氏によれば、師と異なり三斎は、織部の茶の行き方をやはり嫌っていたようで、このことは織部の弟子の遠州に対しても隠すところ無く、更には遠州をもあからさまに嫌っていたという。それは単にあの織部の弟子だからということではなく、武将たるものが作事普請や茶事などで上の覚えをめでたくし立身するなどは共に語るに足らない、という気分だったようだ。

 

10歳の少年のころ利休に会ったことを大事な思い出として語り残した遠州は、意外にも師織部の道具を持つことはなかった一方、利休の道具への敬愛を伝える逸話はいくつか伝わっている。

そんな遠州からすると、利休膝下で茶歴を積んだ16歳年長の三斎に対しては、50歳以上も離れていた織部とはまた違う畏敬の念を払っていたであろうことは十分察せられる。

 

一方の三斎はというと、茶人以前に武人としての心がけをうるさく周囲に諭す人物で、ことのほか日頃の武事の備えと嗜みを重く見ていたことは他の逸事にも頻繁に現れており、隣藩黒田家の家風を嫌い敵視してそなえるところがあったのも、その気分の延長であろう。茶の指導と普請に明け暮れている遠州を許すには、相当足りないものがあったらしいのである。

 

いったいに、徳川将軍家からは譜代同様、それ以上の気の遣われようで扱われている細川三斎忠興であるが、あるとき三斎が将軍家から、遠州が普請中の京の作事を見てきてくれるよう依頼を受けて出向いた現場でのこと。

黙って見て回る三斎の後を、五,六間あとから遠州がかがむ様にして付いてくるのを無視して声も掛けようとしないのを三斎の息子忠利が気に掛け、あのように遠江守が、というのも気に掛けず次々と見回って歩いてゆく。

そのうち耐えかねたものか、遠州はその場をそっと離れていったという。

 

このときの隠居・三斎の仕様はなんともいやなやり方だが、ではまったく遠州を無用の存在と見ていたかというと、そこはちょっと違うのだ。

 

あるとき遠州が一万両ちかい借財で破綻寸前となり、将軍に発覚すれば取り潰し必至の危機を幕閣の重職たちが知り、あれだけの有能な人材をむざと廃人に落とすわけにはゆかないと、借財の肩代わりを重職二人に加わえ三斎にも声を掛けて参加してもらい、救ったことであった。

三斎にとり、武人の生き方として足りないものを感じさせる遠州であるが、一方では、これほどに幕府の必要とする人材であることを認めるだけの別の眼も持っていた、ということを示した逸話であろう。

 

 

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京風と江戸風:栂造作の良さ

 

京風と江戸との違いということ。

 

数奇屋の主用材・杉ひとつとってもそれを扱う異なる美意識が様々な違いを見せることに。

大まかに言えば、幅の揃った木目がどこまでもまっすぐといった調子で、あくまで見た目の整斉さを重視するのが江戸風。板目や曲がりや節など適度にあるのが自然の味とするのが京風。役人風と町家風とも言えそう。

軒の垂木や障子の桟見付の木取りで、柾と板目をどの向きに使うかという場合の表れ方などに。

柾目派の吉田五十八と板目派の村野藤吾とみることもできそう。

吉野杉の肌の柔らかさ(江戸からみるとぼんやり)と、秋田杉の肌のきっぱり感(つよい冬目の色と夏目の白さの対照)。「すい」と「いき」の対比。

 

ここまでだと、江戸の数奇屋材料もそれなりに京・大阪と張り合えそうに思えるが、ここで日本栂(ツガ)の美しさを思うと、ちょっと言葉につまるところがある。

 

阪急線沿線の御影、芦屋辺りはいまは少なくなってきたが、かつて大正昭和にかけ関西のお大尽の屋敷町として立派な石垣の奥深く数奇屋住宅が立ち並んでいた時期があった。

かつて機会があってその界隈を訪れるたび、代表的な何件かを拝見させていただいたことがあった。

当時の数奇屋仕事のすばらしさに加えそのときの新鮮な発見はいくつかあったが、なかで最も印象的だったのは、上等な日本栂の美しさ好もしさに出会ったことで、四方柾の柱の美しさはいまもって新鮮である。

 

というのも、われわれのように主に関東を仕事場としている者には、日本栂の建築に出会うことは案外少なく、なにより東京の材木商では日本栂を用意しているところがないというのが実情であろう。

もっともすでに関西でも手薄になっているとは聞くが、九州の知人によれば、まだこちらでは普通に市場にあるとのことであるから、用意できないことではないようだが、それをこちらで遣うとなれば高価なものになってしまうことだろう。

上等の日本栂の味とは、上等の松と上等の杉の両方の良いところを併せ持った味わいだ。材の特徴としては成長が緩やかな分繊維は緻密で、冬目が濃く硬く細かい柾目となり、大工加工に手間がかかるということがやや難点といえる。

 

目の詰んだ地の美しさは関東ではまず見ない良さで、これに対抗する江戸の材を示したいが、ちょっと思いつかない。あちらで桧普請・杉普請をものともせず栂普請を数奇屋住宅の最高峰としてきた伝統があるのも、充分納得がゆく。

 

明治期の数奇屋ではあるが「對流山荘」(伊集院兼常の設計、棟梁島田藤吉、小川治兵衛の作庭)を栂普請の名作として挙げておこう。

 

 

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桜の怖さ

吉野の桜の恐怖

 

不順な天気が幸いしたのか、今年の桜が長命であるのは目出度い。

 

桜はどういう訳か、昔より人の死と二重写しでイメ-ジされてきた。

願わくば如月弥生のころに桜の下で死にたいと望む西行、一夜の宿を借りたいと語りかけて擬人化する忠度、近くは桜の下には死体があるはずという基次郎など、その盛りの余りの見事さから現実以上の何物かを感じて思いを寄せてきた人たちは大勢いる。

 

これは平安のむかしのこと。

吉野の夜桜を見ようと独りで山に上った男が、夜桜の余りの見事さに、しばらく感嘆して見ほれていたが、ふと気付くと、こんなに見事な景色を一人だけで愉しんでいることが空恐ろしくなり、いそぎ山をおりてきた、という話が今昔物語に出てくる。ただそれだけだが、おそらく実体験した者から出た話に違いない。

 

見渡す限りの満開に咲く桜、桜、桜。

桜以外誰一人いない中、息づく桜だけが目の前はおろか、目に付く限り満山で花びらを散らせているのは、まるで大きな生き物のようだ。

雪の夜が明るいように、散った花びらでぼうっと明るい山肌がどこまでも広がる。しかも誰も見えないのに生き物の気配だけが自分の周辺でざわめいている。

これはおそろしいに違いない。

 

千年もの昔にこんな発見もあったかと、初めてこの話に出会ったときに感動した。ちょっとホラ-めいた気分のあるところも、近代的で新鮮だ。

 

ところが周囲の友人・知人に話して反応をみたところ、このはなしの面白さを一向に解さない者が多いのを知り、これにも驚いた。 

そこで今回は、この話の面白さがわかる人を求めて、この話を紹介してみた次第。

 

この味わいをわかっていただけた諸兄は、きっと詩人の感性と想像力をもった人にちがいない。

 

 

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日本の橋

 戦前の日本浪漫派評論家・保田與十郎に「日本の橋」という歴史的感傷をさそう読後感をもつ好評論がある。

秀吉の「小田原の御陣」に参加すべく勇んで出て行き、2度と還ることのなかった息子を傷んで、33年後の供養にと自分の郷土の片田舎にある小さな川に橋をかける老婆の祈りの話である。

保田がこの話を伝えられるのは、橋を掛けるまでの顛末が四百年前この老婆により石(若しくは擬宝珠)に刻まれた文字で残るからであり、またそれが心をうつ名文であるからによる。

 

 てんしやう十八ねん二月十八日おだはらへの御ぢん、ほりをきん助と申す十八になりたる子をたゝせてより、又ふためとも見ざるかなしさのあまりに、いま此はしをかける事、はゝの身にはらくるいともなり、そくしんじやうぶつし給へ、いつがんせいしゆんと、後のよの又のちまで、此かきつけを見る人、念仏申給へや、卅三年のくやう也

 

橋の名は裁断橋。堀尾金助。落涙。即身成仏。いつがんせいしゅんは戒名。33年のくやう(供養)は33回忌のこと。名古屋熱田にあり、女性作の日本三名文の一に挙がっている。

 

 以前、立て続けに橋の設計を依頼されることがあり、この時期に集中して日本の橋とまともに向かい合ったことがあった。

 日本の橋の様式は、擬宝珠・欄干・袴付のものを真とすると、それらを省略する方向で草加してゆく系統と、桂離宮の池にかかる土橋・石橋等構造上別種の系統のものにわかれる。錦帯橋や猿橋は前者の特殊例と分類できるであろう。

 

あるとき高知県からの話で、はりまや橋周辺の再開発計画を進めるなかで「はりまや橋」の復元設計を依頼された。

このときは、地元が橋の復元設定年代にこだわったことから、俗謡の発生期である幕末とするのがふさわしいとされたが、あらためて考えれば地方城下の場末にすぎなかったであろうその場所で考えられる橋とは、お粗末な木橋程度でしかなく、これををリアルに再現することもあまりに無意味であり、当初設計の二つの橋脚をもつ大橋案を成果として手を離れることとなった。

その後の推移を見ると、当初設計通り朱塗り欄干式の様式にもどっているが、当初10間以上の大橋で設計したものが、その後の計画縮小を経て、現在は4間程度の小橋になっている。

 

それからしばらくして沼津御用邸の東西を分ける用水の跡を結ぶ木橋の設計依頼があり、ものがかつての皇室敷地にかかわることなので、その様式については皇居御苑のなかに架かるいくつかの橋を参考にしては、ということで皇居内の橋ばかりを見せて頂く機会があった。

案外に無骨で素朴な形式のものが殆どであったが、そこはもと江戸城内であり武家の用いたものであったことを考えれば当然のことかもしれない。

しかし今回の計画は場所が風雅な海浜の御用邸という静養の地ではあり、もうすこし細めで柔らかなものにしたかったが、お上であるお役所のご意向ではやむなく、江戸城式の採用とはあいなり、現在もふたつの庭園を結ぶ唯一の橋として活躍している。

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木橋は将来の修理・架け替えが前提になっているので傷み易い箇所の保護・交換を予期しなくてはならない。擬宝珠・然り、橋桁木口に小庇を付けたり、床に勾配をとるなど、雨掛かりへの配慮は欠かせない。

 

 世田谷の住宅・I邸では新築の新館と隣地にある在来のお住まいとを連絡する通路を必要としたため、本宅の床が高いのを利用して、下を潜れるほどの低めの橋形式でつなぐことを考えて見た。

 

更に新居の玄関アプロ-チからよく見えるところから、能の橋掛かりを模したア-チ状の低い手摺で非現実の雰囲気を添えた演出をし、趣向好きのオ-ナ-から喜んで頂いたことがあった。

 

橋とは此岸と彼岸とを結ぶ境に位置するもので、異次元への誘いを垣間見せる不思議な仕掛けが似合う建築である。見分けも定かならぬ陽が落ちた頃合いを、彼ハ誰レ刻(カワタレドキ)、誰ソ彼レ刻(タソガレドキ)と表現したような曖昧な想念をたのしむ仕掛けがかつての日本建築や庭園にはあったのだが、あわただしい現代の中にこそ、悠久のときの流れにおもいを馳せるよすがを数奇屋にこそ、ほしいものだと思う。

 

 

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国宝となった紙模型の話

国宝となった紙模型の茶室がある。

 

その種の模型は、一般に「茶室起し絵」と呼ばれている。

茶室の壁を一枚づつばらばらにして、内外の姿図を20分の一の縮尺で和紙の両面に描き、これを平面図を描いた台紙上の各位置に貼り付け、それを組み立てることで茶室の小型模型をみるようにして楽しむ「茶室起し絵」。視点を変えたりして結構な臨場感が味わえる。

遊びと実用を兼ねた、こんなに手の込んだものを、誰がいつごろから始めたものか。

 

知られているだけでも数種の系統の異なる「起こし絵集」があり、収録された茶室の傾向を調べるとそれぞれ特定の流派が背後にあって、自派の系統の茶室を中心に編集している傾向が見えてくる。それらを総合すれば、全国の有名茶匠の茶室はだいたい網羅されているといえる。

 

茶室資料もなかった当時、茶家や大工などに結構需用があったようで、江戸・明治と何度か版行されて木製の箱入りで売られ、いまでも時々古本屋などに一揃い50万円というような価格で出ることがある。茶室起し絵の建築史的研究は誰もまだ未着手の分野なのだが、比較的まとまった論考が中村昌生「茶室研究」の一部に見られる。

 

そもそも版行の元本は、それぞれの茶室の細部実測から出発するはずである。

しかし実際には、それらの所持者も大名・公家・大商人・家元級茶人たちというのであれば、その茶室に実測の便をとるまでには、企画者が財力も権力も相当に持った大物茶人でなければできることではない上、それでも“こね”や“つて”を相当に使って、その道の物慣れた筆記者を用意して、やっと出来上がる代物に違いない。

 

国宝となった起こし絵は、白川楽翁こと松平定信が指図して制作した起し絵である。

 

さすがに老中まで勤めた勢力家が企画実行しただけあって、当時日本各地の著名茶室の実測をもとに50席程まとめており、製作経緯で文句なく由緒正しく、これを第一とする。由緒正しいとは、寸法にも形にも捏造が少なく信頼できるであろう、ということだ。これが国宝に指定されている理由だろう。

 

上記の製作条件と過程を考えれば、奇跡のような成果であるから、国宝もむべなるかなである。

 

 

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瀬田の唐橋の擬宝珠、或いは利休の教育法

YataderaGiboshi擬宝珠(ギボシ)のはなし。

 

江戸初期、関西建築界の幕府方トップに中井大和守正清という人物がいた。遠州が普請奉行として中央から出向けばその配下で大工集団を統率するような立場の奉行だが、公家世界とも茶の湯を介して親近している実力のある著名人である。

この人が奉行の役得でもあろうか、有名な「勢田の唐橋」*の工事の際、交換となった親柱に付いた擬宝珠(おそらく銅製)を入手保存していたのを、関白近衛家煕(予楽院:この仁は公家社交界の中心的人物)を訪ねた際に贈呈、これが後年水指となって茶会に出たそうだが、この予楽院は日ごろ茶には一箇言をもつ考証家のような人なので、先の尖ったあの擬宝珠を逆さにして(?)どう水指にしたものか、その工夫と形を考える時興味はつきない。

 

この瀬田大橋の擬宝珠。

遡ること60年前のある朝、弟子を集めた席で、利休が言う。「瀬田の唐橋に付いている数ある擬宝珠のなかに特に優れたものが2か所あるのですが、それを見分けた方はおられますか」と皆に尋ねたところ、織部が突如席を離れるや還って来なくなった。夕刻になろうとする頃、馬に乗った織部が戻ってきて、「さきほどご指摘の擬宝珠は橋の両端のものと見分けました」と言うのを聴いた利休は「その通りです」と答えるのをを聴いていた一同は、織部の執心の深さに感嘆したという。

 

前にも書いた通り、当時、優れたものを見るには実際に現物を見届けるしか方法がなかったため、美に執心する当時の人たち、とくに茶人と目されているような者たちの努力は対象の幅も広く、何にでも貪欲に好奇心を働かせ吸収していたようだ。

 

秀吉の小田原での北条戦が片付いて一同が京へと還る途次のこと。このときも利休と織部が駿河の波打ち際に馬を打たせてしばし波の打ち寄せる景色を眺めていたが、織部に「この景色を見ていて新しい茶の工夫が涌いてきませんか」と問う。何事かと怪しむ弟子に「この眺めをもとに、私は京へ帰ったらこれを新しい風炉灰の景色に試してみるつもりです」というのを聴き、絶えざる利休の工夫の様子を目の当たりにして敬意を新たにしたという。

 

それにしても、後年の中井の取り出した擬宝珠は、数十年前に利休、織部が折り紙を付けたとおなじ擬宝珠だったのだろうか。

 

歴史の面白さを感じさせる格好の例といえる。

 

  • ※ 瀬田の唐橋は琵琶湖が南で絞られて川となるところに掛けられた、当時巾8m長さ600mの日本三大橋の一つ。親柱の数だけでも100本は下らないだろう。京の地へ入るための第一関門となるため神功皇后の昔から東西の大勢力決戦の舞台となってきた。もう少し上流にあったのを信長が今の位置へ今の規模で架け替えたのが1575年。その後秀吉、家康と戦で焼かれたのを修復したほか、交通量が只ならないので傷みも速く、幾度も架け替えている。

 

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