広間座敷の床刺し

日本座敷の伝統意匠を扱う際の常識の中に、「床刺し」を嫌うということがある。

 

何を意味しているかと言うと、へやの中心であり主人の座であるべき床の間に向かって、畳の縁や天井の棹縁などの長物が直接ぶつかってゆく作りを、尊ぶべきものを無視した行為、禁忌を犯すものとして極力避けることをいう。禁忌はともかくとしても、刺さるような線が目に入るのは落ち着かない上に、美しくない。

 

現代にあっても、ことに客を迎える正式の書院広間では床刺しということが、不吉として忌まれるのが一般だ。

 

ところが不思議なことだが、礼を大事にしているはずの茶家でこの異風なことを見ることがある。

いまも千家の流れでは八畳敷きだと畳の床刺しが流派の常識になっている。こうなったのは千家流以外の他流はあずかり知らぬことで、千家流以外の流儀では、利休の時代以来の伝統を守るかたちの座敷で茶を点てている。

 

この問題は以前にも触れたところであるが、茶事の稽古法として七事式(花月とも略称される)が考案されたその初期においては、稽古上主客の配置優先で畳配列をした結果生まれた床刺し座敷は花月用の座敷として限定し、それとは別に式正の座敷が広間茶室としてあった(如心八畳)が、花月が広まるにつれ床刺し座敷が普通となり、これと別に座敷を用意することもなかなか一般にはできないことでもあり、あくまで流儀の中で、床刺しが正式扱いに昇格したものと思われる。

 

この様子を憂慮したと思われるのが宗家・如心斎と共に七事式を策定したあと江戸へ出た高弟・川上不白(不白流:江戸千家)で、江戸ではこの床差しが当初は相当の非難・批判を浴びていたはずだ。

 

その結果、八畳の畳配列はそのままに、床差しを避けつつ宗家の新工夫を広間のなかで矛盾なく進めたのが不白の広間座敷であった。

その解決案として、当初は八畳の床側中央に巾一間の畳を敷いて床の間とし、その左右に半畳づつの棚を置いて床差しを避けていたが、のちには更に座敷側へ床と平行に二畳を加えた十畳座敷とすることで、床中のデザインをフリ-にして、かつ床刺しへの批判を上手に交わしている。

不白の八畳座敷の工夫は、のちに千家の八畳新座敷・松風楼にそのバリエ-ションを見出せる。

 

 

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茶室と女性

茶の湯盛んな現代でも、茶の稽古をする男子は珍しい部類だが、かつて茶の湯の草創期の状況は真逆の風景が展開していた。

桃山期から江戸初期へ掛けての茶の湯の初期の歴史を少しでも齧れば、そこには女性の姿がないことに気付くであろう。男社会の交際上の必要から発展していった茶事に女性の参加が認められるまでには、世相の安定と女性の社会的地位の向上が不可欠だった。

 

ということで、女性の茶事への参加記録を調べてみた。

 

そもそも利休当時までの茶会では、茶の点前は立て膝が基本姿勢であったといい、点前を終えた時の姿勢は安座といって両足の裏を合わせて尻餅をついた形が常の座り方であった。この安座は客の姿勢でもあり、即ち、主客ともに正座という習慣がなかった時代であった。このような姿勢は女性には甚だ不都合な状況で、これでは参加もしかねるであろう。

 

女性の社会的地位については、早く寛永(1624-1645)の頃の本阿弥光悦母の言動が有名で、一族を左右するほどの発言力があったことが記録されているし、宗旦没後の千家年忌法要の願主(すなわち千家の総代表)として宗旦後妻の名が残るなど、その存在感がいまに伝わっている。

 

わかった範囲の記録に現れる女性参加では、利休年忌茶会記録に現れる、千宗守母堂の亭主による、宗室妻と、近衛家老女を客とした茶会があり、どうもこれは女性だけの茶会だったようで、理解できる。それにしても、これなどどんな姿勢で茶会の二刻(4時間)を過ごしたものだろうか。既に正座が浸透していたのであろうか。近衛家老女の正座が想像しにくい。

 

 宗旦四天王の一人杉木普斎(1628-1706)の茶室の水屋に掲げられた壁書(禁制を記した板)中に、女性を連れ来るべからず、という一条がある。

こういう断りがあるからには、すでに女性参加の現象が世間ではちらほら出現していたこと、この風潮を茶事修行の妨げとして警戒していたことが推測されて面白い。

 

元禄期の京で宮中茶道を牽引していた近衛予楽院(1667-1736)の会記中に、近衛家奥女中の参加していることが、出現数は少ないものの記録されている。

男女同座の茶会のようだが、公家では女性でも袴を穿く習慣があるとしたら、この時の服装を考えると短袴(モンペまたは長めのキュロット様のもの)のようなものを着用していたか。時代は下ったとは言え、公家社会での正座は想像しにくい。

 

公家世界は武家ほどには、男女間のけじめに目くじらを立てるようなことが少ないこともあったようで、八条宮智仁親王の桂離宮にみるような広間中心の建築構成の一部に広間から入れる小間茶室(松琴亭等)を設けているところなど、女性も参加しやすい工夫とも解釈できる。

女性参入の当初を考えれば、独立した4畳半茶室などの小間に男女同座はさすがに、当時では穏やかでない反応が各所から起こったであろうと想像できる。まずは10畳・8畳の広間の同座から、公家・町家を中心に茶事への女性参加が浸透していったと思われる。

 

 

 

 

 

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宣長の恋

 

宣長と母の執拗な初恋成就。

 

伊勢松阪の医師で国学者・本居宣長の修行時代の話。

京の漢学塾と地元松阪を休暇のたびに往復していた宣長は、途中にある親友の屋敷に一泊してゆくのがきまりだったが、そこであるとき友人の妹たみを見初めたことからいづれ自分の妻にと心に決めるが、まだ修行の身であることと友人の妹という安心感からか、言い出しかねているうち、ある年友人宅で妹がすでに嫁いだことを知らされる。

 

宣長をことのほか大事にしている母は息子の様子から鋭く事態を知ると、修行の障りになることを惧れ、さっそくにも嫁を迎えてしまう。宣長もショックから自棄になっていたか、そのまま話は進み結婚した。

 

しはしたが、まだ未練はたみの上にあり、嫁ぎ先もさほどの遠方でもなく、その後の消息を気にかけていたが、半年ほどして宣長を狂喜させることが起こる。

 

たみの相手が亡くなってしまったのだ。

 

このことを知った宣長はさっそく母と相談して、来たばかりで事情も知らない嫁をことに寄せて離縁し、返してしまう。そして友人の家へゆくと、たみを後添えに迎えたい旨申し込み、成就させている。

 

生きている人にとり恋愛ほど大事なものはないという宣長の信念は、かれにとっては絵空事ではなく喉の渇きのように必死なことだったのだろうとは、初めてこの事実を探り当てた国語学者・大野晋の言う所だが。

それにしてもこの話、どこかイヤなものが残る。

 

離縁された女性はその後、どんな人生を過ごしたのか、気になるところでむごい話だ。

以上は大野が当時の記録(宣長の日記・消息)と寺の過去帳から偶然解明したもの。

 

宣長嫌いを生みそうだが、母子家庭における母と息子の間に起こる類似行動はしばしば耳にするところで、明治文壇の大立者森鴎外にも同様なことがあり、このようなことに対しては、やはり世間は時代を問わず倫理的な抵抗を示すもので、隠そうとする心理とそれを知って違和感を表明する世間があった。宣長当時も宣長の満足とは裏腹に終生自分の生き方に批判のあることを、宣長自身思い続けていたことだろう。

 

この事実が終生のしつこい論敵だった上田秋成の知るところとなっていたら、一歩も後に引くことのなかった宣長が、どんな弁論を残していたか、それだけは惜しまれるところだ。

 

 

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如心斎晩年の述懐

 

 

江戸中期、表千家に如心斎天然(1705)という宗匠がいた。

千家中興の祖といわれる。

 

この茶人の出現後から表千家の茶法が大きく変化する、ということが起きた。

その変革は点前にとどまらず道具や教授法、建築にもおよぶ広汎なものであったので、先代以来の弟子達は、利休以来守られてきた茶法が失われてゆくのを見て「古法変ぜり」と嘆いた、と記録にある。

 

如心斎は幼くして先代を亡くしていたので、教育はその高弟たちに任されていたが、長ずるに及び古法への変革が少数の側近との相談から始まっていった。

千家独特の稽古法である「七事式」の制定がもっとも顕著な成果であるが、これが昔の話などではないことは、建築でいえば畳の敷き方に今も古法を変えた混乱(?)を残す、という形で生きている。

 

伝統的和建築ではありえない広間の床刺し畳を嫌わないばかりか、小間茶室においてすら七事式広間由来の炉畳の扱い(古法と異なる)を押し通して残している。

これが混乱を作り出しているとの指摘を今もって受ける所以だが、このあたりが建築を作る側がしっかり認識してかかる必要がある箇所だ。

そうしたい流派があるのはやむをえないとして、なぜそうしたことがあるのかを、茶座敷の仕事に携わる者は知っておくべきと思う。

 

既に記した通り「七事式」は数ある茶道流派の内、千家流の茶事の稽古法としてスタ-トしたものであるので、他流派に関係することではないが、市民茶会などに供する公共施設内の茶座敷などでは、混乱なく共通の使用に耐える一般性のある施設であるべきは勿論であろう。

 

当初は稽古のためのみの座敷として稽古に便利な畳配列をしたに過ぎなかったものが、茶事となると別の座敷を用意せねばならず、それはなかなかできることではないので、その座敷がいつのまにか家元宗匠の正式の座敷となって、ついにはわが流派はこれでなければ、ということになっていった。

 

かつて大日本茶道学会の初代家元となられた田中仙樵氏(故人)が盛んに茶の古法を探求されていた時期があり、小生もその研究から様々なことを学ばせて頂いたが、この畳の敷き方の異同についても現存する茶席・座敷を例にあげて、随分な熱意をもって古法への理解を訴えられていたことを記憶する。

 

先日茶書を見ていて、たまたま如心斎の弟子による晩年の病いの床での述懐記録に出会った。

その内容が、上記の問題を考える者には貴重な証言となるので、記しておきたい。

 

それは、かつての古法への改変を大変に悔いていた、というものであった。

 

このことを仙樵氏がご存知だったかどうか。思い合わせて、感慨深い。

 

 

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漢学生宣長と和文の出逢い

宣長の国学回帰事件

伊勢松阪の本居宣長は古事記の注釈書「古事記伝」と源氏物語研究で知られる学者である。「もののあわれ」にこそ我が国固有の美があり、近年の学者の「からごころ」(人本来の自然な素直さに反する理屈一方の分別心。漢学的思考。)から生じている物事の解釈の誤りを書物で訴え、その過程で生じた上田秋成などとの論争でも有名だ。

 

この宣長が十代のころ家業の医学修行のため、京の漢学塾で漢文に明け暮れる毎日であったが、あるとき専門書からはずれた国学系統の文献「御堂関白日記」を紐解いているとき、ある事件の描写を読んで、その文章の美しさにひどく感銘を受けたことが、漢学を捨て国学へ回帰した契機となったという。もともと十代の頃に国学を齧っていたというから、漢学に移ってからも未練はあったのだろうが、話はここからだ。

 

わが国の中国文学の泰斗・故吉川幸次郎は日頃、本居宣長を畏敬しその文学研究の方法を自身の方法の検証に使う人であった。宣長の漢文読解能力の高さは、当時の諸書中でも抜きん出ているというのが吉川の評価だが、その漢学書生時代の宣長が国学に出遭い回帰したという記事を、当時の学生宣長が使っていたノ-トにみつけて興味を惹かれ、漢学者である自身が追体験を試みたという。

 

件の文章の内容を簡単に言うと、一条帝が屏風を新たに作ったが、そこの絵に合わせる歌が一つ足りないことがわかった。そこで急遽、豊かな和歌の才で知られる御息所 ミヤスドコロ(これがあの百人一首の伊勢であり、美貌でも知られていた。)に一首作って貰うことにしたが、才あふれ華やかな御息所の住まいへ人を遣わすのに並みの男では侮られ、後日帝自身が恥をかくことになる。

誰を選ぶか側近と相談した結果、当時の女房達に評判の美貌と挙措の見事な、或る青年貴族が招かれて指名を受ける。

この青年は装束を直すと、さっそく御息所邸を訪ねて行き来意を告げる。対面の座へと通された公子から改めて帝の意向を聴いた御息所が奥へ入り歌のできるまでの間、そこの若女房たちから酒食の接待を受けてほろ酔いとなった公子が、めでたく戻るまでの宮中から御息所邸内部の様子を、評判の美青年を迎えた女房達の興奮や応酬、美しい調度の有様などを心理と実写を交えて、こと細かく色とりどりに描いてゆく、という内容だ。

 

 

くだんの文章を読み味わってみて吉川が納得したことは、たしかに王朝美をまざまざと浮かび上がらせるその文章が達意で、十分に美しかったこと。

更に思うことは、この描写を漢文で表現しようとすれば、意味は通っても優美繊細な平安美の情趣を伝えることまでは不可能で、国文でのみ出来得ることだと認めざるをえなかった、と。

 

そして思うそうだが、漢文学徒宣長がこの文章からある思いを持ったとしたら、それはおそらく自分の感じたことと同じ思いであったろう、と。

即ち、日本人でしかできない、また、わかりえないこの道に分け入ることもまた素晴らしい魅力がある、と。

 

こちらは宣長でも吉川でもないが、なにやら、豊かでうれしくなるはなしだ。

感興を起こされた方はぜひ、上記「御堂関白日記」の該当箇所を読んでいただくと良い。(ここに引用するにはちょっと長くなり過ぎて、お見せできないのが残念!)

 

 

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師の跡を継がぬ弟子

師匠の名跡を継ぐ者、必ずしも師匠の道を継がず、ということ。

 

その1 珠光が後継とした宗珠が、珠光没後は侘び茶と方向を異にした行動をとっていくこと。(数江教一「わび」)

 

その2 宗祇が地方への旅の途次発見した藤原定家筆「小倉山荘百人一首」の半分の50枚を、まとめて都へ持ち帰り、三条西実隆の鑑定を経て一躍脚光を浴びた。 このとき、「天の原」の色紙は紹鴎の所有となり自ら天下一と鑑定をつけたもので、やがて紹鴎没後に松屋久好(紹鴎女婿)、利休と所有者を変え、利休から秀吉に披露された。 

・あまの原 振りさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも(阿倍仲麻呂)

 

のちにこれを入手した利休であったが、紹鴎の鑑定に同意せず、 

・やえむぐら 茂れる宿の さびしきに ひとこそ見えね 秋は来にけり(恵慶法師)

 

を天下一としたのだった。師とはいえ納得しかねるものが利休にはあったのだ。

 

二首のもつ色調の違いは、いかにもふたりの茶境の違いを示しているようではないか。紹鴎びいきの有楽斎であればどう思ったであろうか。

 

 その3 これは利休と織部の茶についても言えることで、利休同門で利休の茶の祖述者となる細川三斎がその織部の茶の行き方に反発していたことは以前に書いた。

 

その4 その織部と師弟の関係にあった遠州についても言えることであり、遠州は織部の道具をもつことはほとんどなかったし、掛け物の使用をみても織部は墨蹟の使用を避けていたが、遠州はむしろ有楽斎が始めていた新傾向に合わせるように墨蹟を用いる事を好んだのだった。(余談だが、意外にも利休が墨蹟を使ったのはその百会記中38回にすぎない。つまりこの点では織部は師の行き方に忠実であったことになる。)

 

上記その2の補足ながら、ついでに記しておく。

利休が師でもある紹鴎に対し、十全な心服をおいていなかったと思わせる逸話がこの外にもいくつか伝わっているのは、残念かつ意外なことではなかろうか。

 

・弟子の宗二が紹鴎の茶と誰某(失念!)の茶をくらべるとどちらが上か、と尋ねたところ、利休いわく「囲碁でいえば紹鴎が一目おく」(つまり紹鴎が劣る)と云ったと。

・利休が紹鴎に付いていたころ、紹鴎が身分のあるものには平然として追従を使っているのを見て、自分との違和感をもった、と伝わる。

・紹鴎なきあと、師から依頼された息子宗瓦の指導にあたってあまり誠意のある態度とは言えない振る舞いのあったことなど。もっともこの宗瓦は親の残した財産もあることで、かなりわがままな育ち方をして手を焼かせたらしい。

 

といったことなどだが、更に、これに遠州と石州の師弟の関係を加えることもできそうだ。

師の奇麗サビに対し片桐石見守の茶はもっと利休のわびに原点回帰してゆくような趣を見せている。

茶の湯が創意を必要としている以上、時には新しい芽が吹き、逸脱と見える方向に成長してゆくことがあるのも、他の諸芸術同様に当然起こり得ることなのだ。祖述者三斎の律儀な行き方こそ稀というべきか。

 

 

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