山県と伊集院のこと

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明治の中頃の数寄屋世界で、山縣有朋と伊集院兼常の関係がおもしろい。伊集院が初耳の人には説明がいるかもしれないので簡単に。

 

生家は薩摩藩の門閥で、幼少時から藩主・島津斉彬の期待を受け少壮建築官僚として育英されたという。

幕末の混乱期、焼打ちで消失した江戸藩邸を短時日で完成させたのが弱冠二十歳。相当優秀だとわかる。

維新後は明治政府で建築実務・行政を牽引。(コンドル設計の鹿鳴館も実務指揮している。)

官界を辞してからは在野の広い交友のなか、渋沢・藤田・大倉ら財界から乞われて日本初のス-パ-ゼネコン 日本土木会社(大成建設の前身)草創期の社長に座ったこともあった。

それらの仕事とは別に、造園・数奇屋に堪能で当時の貴顕の依頼で邸宅を設計、他方、趣味で造り続けた自分の別荘が対流山荘はじめ10件ときかずDSCN8197_3313、また西欧化の波ですっかり廃れた茶道界の興隆を図るなど、多方面で活躍した。

 

長州の山縣も造園と建築については人から一目置かれる見識を誇っていたが、この伊集院の前では弟子が師父に対するごとく日ごろの強気を遠慮して、伊集院の自作への評価を気にしていたという。もとより山縣は東京へ戻れば時の長州閥のトップとして政府をけん引してゆく重責を負っていたが、それにしてはよくこの南禅寺畔や木屋町辺に出没する暇があったと、その熱心さに感心する。兼常は釘隠しなどの金物も自らデザインするなどはお手の物だが、さすがに山縣にそこまでは無理だったようで、兼常が木屋町の自宅に作った欄干の十字金物を、無鄰庵でも見ることができる。ふたりの作には、一方でそんな関係もあるのだった。

 

兼常の対流山荘の隣に作った山縣の無隣庵を、「なかなかうまくなった」と兼常に評された有朋は「兼常がこう言った」と、周囲にうれしそうに吹聴したそうである。

山縣も兼常に負けぬ多作ぶりで目白椿山荘・小田原古希庵と今に残している。

 

この二人は広くもない京都加茂川周辺を次々と相手の居場所を追うように別荘の新築・引越しを繰り返している。

これに絶えず随伴した庭師があの伝説的名人「植治」で、この人の聞き書きを読むと山縣は名人、伊集院は「今遠州」で不世出とあり、随分と教えられたとのこと。二人と別に中井弘という政界人がいて、これもまことに名人(奇人としても有名だった)と感心している。よき時代の見識高いパトロンと腕自慢の職人の理想的出会いであった。

 

山縣と伊集院。このふたりなどは名が残るだけあって際立った手腕を身に着けていたが、大工や庭師も感心するような指導力と見識をどこで学んだものか。

もとより好きな道ではあり、今とは比較にならぬほど、名建築・名庭園をもつお屋敷がふんだんに残っていて、これらをを見る機会をすすんで利用してきた経験の蓄積そのものであったろう。

数寄屋好きにとっては、まことに良き時代であった。

 

 

対流山荘はその後転々と所有者を変えながら今でも健在で、植治の庭も滝の音を響かせてほぼ昔の姿を見せている。

 

 

 

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