師の跡を継がぬ弟子

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師匠の名跡を継ぐ者、必ずしも師匠の道を継がず、ということ。

 

その1 珠光が後継とした宗珠が、珠光没後は侘び茶と方向を異にした行動をとっていくこと。(数江教一「わび」)

 

その2 宗祇が地方への旅の途次発見した藤原定家筆「小倉山荘百人一首」の半分の50枚を、まとめて都へ持ち帰り、三条西実隆の鑑定を経て一躍脚光を浴びた。 このとき、「天の原」の色紙は紹鴎の所有となり自ら天下一と鑑定をつけたもので、やがて紹鴎没後に松屋久好(紹鴎女婿)、利休と所有者を変え、利休から秀吉に披露された。 

・あまの原 振りさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも(阿倍仲麻呂)

 

のちにこれを入手した利休であったが、紹鴎の鑑定に同意せず、 

・やえむぐら 茂れる宿の さびしきに ひとこそ見えね 秋は来にけり(恵慶法師)

 

の色紙を天下一としたのだった。師とはいえ納得しかねるものが利休にはあったのだ。

 

二首のもつ色調の違いは、いかにもふたりの茶境の違いを示しているようではないか。紹鴎びいきの有楽斎であればどう思ったであろうか。

 

 その3 これは師弟であった利休と織部の茶についても言えることで、利休同門で利休の茶の祖述者となる細川三斎がその織部の茶の行き方に反発していたことは以前に書いた。

 

その4 その織部と師弟の関係にあった遠州についても言えることであり、遠州は織部の道具をもつことはほとんどなかったし、掛け物の使用をみても織部は墨蹟の使用を避けていたが、遠州はむしろ有楽斎が始めていた新傾向に合わせるように墨蹟を用いる事を好んだのだった。(余談だが、意外にも利休が墨蹟を使ったのはその百会記中38回にすぎない。つまりこの点では織部は師の行き方に忠実であったことになる。)

 

上記その2の補足ながら、ついでに記しておく。

利休が師でもある紹鴎に対し、十全な心服をおいていなかったと思わせる逸話がこの外にもいくつか伝わっているのは、残念かつ意外なことではなかろうか。(尤も修業時代の千宗易には時代により数人の師の存在が知られているのだが。)

 

・弟子の宗二が紹鴎の茶と誰某(失念!)の茶をくらべるとどちらが上か、と尋ねたところ、利休いわく「囲碁でいえば紹鴎が一目おく」(つまり紹鴎が劣る)と云ったと。

・利休が紹鴎に付いていたころ、紹鴎が身分のあるものには平然として追従を使っているのを見て、自分との違和感をもった、と伝わる。

・紹鴎なきあと、師から依頼された息子宗瓦の指導にあたってあまり誠意のある態度とは言えない振る舞いのあったことなど。もっともこの宗瓦は親の残した財産もあることで、かなりわがままな育ち方をして手を焼かせたらしい。

 

といったことなどだが、更に、これに遠州と石州の師弟の関係を加えることもできそうだ。

師の奇麗サビに対し片桐石見守の茶はもっと利休のわびに原点回帰してゆくような趣を見せている。

茶の湯が創意を必要としている以上、時には新しい芽が吹き、逸脱と見える方向に成長してゆくことがあるのも、他の諸芸術同様に当然起こり得ることなのだ。祖述者三斎の律儀な行き方こそ稀というべきか。

 

 

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