武士集団組織に見える数寄屋美

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平安末の院政期、都の武士集団が派閥に分かれつつも、各々がその優秀さを競ってゆく中から組織が発展してゆくことで、貴族層に対し武士世界の底上げがなされて行くということがあった。

 

以下の話は、遂には帝と並ぶ権勢を手中にするまでに組織を大きくした清盛の出る数代前のこと。

禁裏御用に就いていた平家一門の様子を伝えている話から。

 

夜も更けたころおい、にわかに御所の奥向き(藤原頼通)より使い番が立ち、禁裏詰めの平氏侍頭のもとへ、都郊外の荘園までお使いをする大臣のお供をして、警護かたがた勤めて参れ、との下命があった。

 

すでに深夜である。

百鬼夜行と言われる、たださえ盗賊の跳梁する都大路を抜け、さらに草深い田舎道を突き進み用を果たし往復せねばならない。よほどの危険を覚悟せねばならないであろう。

 

そう思いながら大臣が牛車に乗り込み禁裏を出るときに様子を窺がうと、その侍頭一人が牛車に付くのみで、大臣の不安はつのるが、さらに外の様子を窺がっていると、街中をゆくに従いまた辻を過ぎたと思う頃合ごとにどこから現れるのか、左右に一人づつ無言のうちに馬上の武士が加わりだし、荘園に着く頃には左右八騎づつの十六騎という数に増えていて、大臣はたいへん心強く思う。

さて用が済み帰る段となり十六騎が牛車の左右に付き都へもどったが、来るときとは逆に辻々へ差し掛かるたびに侍たちは無言のうちに、二人また二人といつのまにか姿を消し、禁裏へ入った時にはもとの侍頭一人が従うのみであった。この大臣は初めて見る平家武士の頼もしい様子にひどく感動した、という。(宇治拾遺物語)

 

あの時代に、こんな垢ぬけた組織作りを武士集団の平家はやっていたのだ。伝令役がいたのか、空に上がる合図のようなものがあったのか、日頃よほどの訓練で用意されているのだろう。ここでは屈強の16騎ながら、現れた相手が多人数であれば、おそらくこの5倍10倍の兵が忽ち駆けつけるしくみも出来ていたことを想像させるに充分なエピソ-ドだ。

ここでは平氏一門だが、これと対になるような話は源氏にもあるのだから、やがて来る武士の時代はこのような切磋琢磨の中から磨かれて、当然のように生じたものなのだ。

 

貴人の護衛部隊という目的を果たす上でどういう組織を作ったらよいか。その際、侍頭には貴人へのパフォ-マンスという意識がしっかりあったに違いあるまい。

騎乗の武者という構成各個人(恐らく見栄えのする堂々たる偉丈夫だったろう)の選別にみる優秀さと、これらを組織するのに一見切って落としたような単純さ(16人)の構成美で表現して見せる見事さ。

 

まるで、これはものを省きながら、残った構成材に極度の完成度を求めている数寄屋の見せ方そのものにも思える。

 

 

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