創作は記憶の中に・2

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幼童期の感興の持続・2

 

芸術家の表現は、過去の幼童期の感興を再現しようという試みではないか、という考察のつづき。

 

かつて小生が高校へ入学して間もなくの頃、現代国語の先生より佐藤春夫や島崎藤村など一部の日本の代表的青春譜の作者たちの詩などは、君らが15,6歳のころの今の感性で出会わなかったら、数年して鑑賞するには手遅れになると脅され、かなりの本気で向かい合ったことが、いまにして感謝される。

 

156歳が持つ感受性が後年にまで持続できないことは、たとえば、当時の輸入欧米雑誌掲載の美しいグラビアの収集をいま取り出して見れば、情けないほど何の感興ももたらさないものと化している現実から実感できることだ。こうなると、自分の中に当時感激して作り上げた、今もいきいきと再現可能な心象の方が真実で、それをかつて形作ってくれた目の前の平凡な出来のグラビアはすでに虚像、ということになる。

(心象が真実で、それ以外は虚像-これは茶室待庵を訪ねた体験からも言えることで、待庵訪問以前に写真・ビデオで映像としての待庵がすっかり脳裏に出来上がっていたので、現実の薄暗いだけの待庵訪問で何かが自分の中にもたらされることはなかった、一面逆に、何かの残骸を見ているような寂しい思いすらしたものだった。)

 

15・6歳のもつ感興のエネルギ-は大変なもので、四季の気配にすら敏感に反応し、其の季節でなければならない風物を、深い感興と共に見えないものまで見て記憶に畳み込む。

 

冒頭の幼童期の感興の再現が芸術家の目的になるというのも、後年からの刷込みとは格段に深度が違うのだから当たり前だ。 

「芸術家は理論を習う前に、幼いときもっと根本的な体験をしており、彼のその後の成長と円熟はこの根本的体験につながる表現へと迫ってゆく。」と、吉田秀和(「ソロモンの歌」)に同様の指摘があることを最近知る。

 

このことは文学・美術の分野に限らず、発明・発見に創作を必要とする数学の分野に於いても同様の事があるようだ。

 

数学者藤原正彦によれば、大天才と言われる程の数学者と、彼が生まれ育った自然環境との間には密接な関係があるそうで、幼童期の美しい風景こそがその育成に不可欠とのことだ。これは藤原が近代数学の天才の伝記を執筆するに当り、彼らを生んだそれぞれの故郷を訪ね歩いた結果の結論だった。

 

これと似た事を同じ数学者・岡潔がその随想に残している。いわく「数学を仕事とする上で、研究対象が美しい風景をもつものでなければ、取り組む気にはなりません。」と。

数学には風景というものがあるらしく、岡教授はインスピレ-ションの源泉として「懐かしさ」という感興を大事にしていた。

 

また、数学をやっている人が、整数論は美しいと言っているのを耳にする。なかでも素数列はとくに美しい、などという。

 

数日前この整数論の分野で最大級の謎とされていた「ABC予測」の証明を果したことで話題を呼んだ京大数理研の望月新一教授なども、きっと岡教授のいう美しい風景をみつめてきた人なのだろう。

その機微はわからぬながら、美意識が働き出すことで強い動機付けに結びつく日本人らしい創作の実態があるのだろうと、小生などは受け取っている。

 

 

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