創作は記憶の中に・1

2018/02/08 ブログ
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幼童期の感興の持続・1

 

芸術家の表現は、過去の幼童期の感興を再現しようという試みではないか、という考えが消えない。

 

かつて石彫などの造形作家として活躍していたイサム・ノグチが、かつて作陶の師としていた筈の北大路魯山人(作陶・篆刻・書・料理の分野で活躍)の作品をさして、「単なるジレッタント(亜流)にすぎない」と切り捨てるように書いているのを見て以来、覚えた違和感がまだ残っている。

(たださえ北大路魯山人という人物は強烈な自負をまき散らした生き方で多くの敵を作っているが、小林秀雄の盟友、かつ審美眼の師表としてもその意見に定評があった青山次郎が「彼の書には魂がない」と断じたことなどが当時の鎌倉論壇に決定的に働いたこともあり、魯山人批判はいまも根強い。これ以上触れると今日の主題が消えるので、ここでやめる。)

 

確かに魯山人の作には仁清・志野・織部はては乾山と、□□風が多いのだが、彼の作陶は観賞用というより、現実の料理を盛ったときの楽しさ・美しさを添えるための物であったから、このような遊び心は当然あるべき要素の筈である。そのことがここまで否定されるようなことなのだろうか。

どれも見る者に楽しく破たん無く出来ている。料理を愛する魯山人が手元にそれら伝統美の匂い立つ器を自ら作り配し、自らの調理を盛り込んで知人たちと食事を楽しもうとする行為はごく自然なことだ。この楽しみは彼一人にとどまらず多くの貴紳の望むことでもあったので、彼が料理茶屋・星が岡茶寮を開くやたちまち評判をとったのだった。

(それらの器は今では魯山人作としての相応の価値をもち、それらを実見する愉しみのため、器の多くを所蔵することで有名な福田屋(東京赤坂)や八勝館(名古屋)といった料亭へ足を運ぶ人が少なくない。)

 

 

このように芸術家の創作活動の成果が、全くのオリジナルか否かが時に話題となることがあるが、日本においても創作の初めは師の模倣から始まることは普通のことで、それが正道でもあった。

芸術家が長じて独創を求められるようになったのはごく近代のことではなかろうか。それまでは、例えば江戸中期のいわゆる琳派絵師が好んでする画題の継承といった、師の作品に似せてモノ作りすることは、ときに ’ 写し’ としてそれなりの歓迎をもって遇されてきた歴史もある。

 

純粋の創作にこだわる姿勢の是非・評価は分かれる所だが、創作が過去の学習を認めず、伝統に連なることを拒むなら自ら孤高を行くしかなく、そこは理解者の存在しない世界を意味するが、そこで絶対者となってどんな意味があるというのだろうか。今では語る人も少なくなった、庵治石アジイシを使ったノグチのオブジェの存在は、その象徴のように見える。純粋芸術の中に住もうとするノグチが、実用の世界に立つ魯山人にものいうということが、大きな勘違いというべきではなかろうか。青山次郎もしかりで、魯山人は自分の書について永らく盛唐の書を模していたが、晩年はひたすら良寛の書を慕ったという。しかし、自ら仏者の精神性を表出して競うことまでは考えていなかっただろう。高い精神性を求めるのは勝手だが、魂がないとは恐れ入る。

 

アメリカで生まれ幼少年期(この時期とてアメリカ人母堂の意志で米人用スク-ルへ通っている)を除いて殆どアメリカ文化の中で成人し、そこを活動の場としてきたノグチには、どうも日本文芸の味わいへの理解が希薄だったとしか思えない。

すなはち、日本文芸への共感を可能とする幼少期の体験素地がなかった例となるのではなかろうか。(これはイサム・ノグチを取り巻く、或る意味、たいへん不幸で激烈なプロフィルをwikiでみていただくと事情が納得できると思う)

 

この項つづく。

 

 

 

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