利休の小間試行

2017/02/07 ブログ
庭

先回、2畳小間には対人距離でいう「会話域」レベルの緊張感がある、という話であった。

因みに通常の会話距離は1.5~3.0メートルの「近接域」で行われ、これだけの距離であっても会話がなければ気まずい空気が生まれるといい、0.5以下「排他域」で絶対他人を入れたくない距離という。

紹鴎当時、京間八畳程度がまず小規模座敷の下限で、京間六畳がぎりぎりの対面距離であったというから、これを4畳半にまで詰めたことは思い切ったことだったのだろう。(義政の東求堂同仁斎が4畳半の始まり説になっているが、茶室であった確証がない。)そして更なる小間化を図り、ここを超えることは不自然さを座に持ち込むことになるので、先達も踏み切れなかったのだと考えられるのだが、わが利休はこの問題が草庵侘び化のための最大のネックとなっていることに直面して、平面上に炉の位置を工夫し、天窓で上方への意識を作り、天井の形状に変化をつけ(紹鴎までは平天井)、にじり口や茶道・給仕口で動きの工夫を作るなど、様々に試行錯誤したのであろう。にじり口を考案(朝鮮源流説はとらない)し、五尺(150センチ)程度の茶道口を標準高として、潜って入る亭主の姿を皆に見てもらうように企っている。

結局、最終的に利休は一畳半まで茶座敷の侘び化をすすめて、いまに今日庵一畳台目となって残る。

 

織田有楽斎も主客を離そうと、遣り違いという手法で二畳までは進めたが、客を苦しめるだけ、と結局放棄している。間が持たないほどの息苦しい距離感に至った、と感じられたのだ。有楽が拒否し、利休の飲み込んだものの差とは、つまりはこの主客の距離感の限界をどこに置くか、の差だったのだろう。武家育ちと商家育ちのもつ ”程の良い間合い” の差だ。利休の最期を淀に見送った三斎・織部とも武家だった。利休亡き後、利休のもつ人体尺度は消えうせ、武家共通の程のよさで茶室改革は安定期に入ったといえる。

 

 

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