利休の直面した小間縮小の問題
- さて、小間縮小の過程で対面距離の問題(息苦しいほどの距離)を利休はどう解決したのだろうか。
すでに珠光が一休禅師と出会い、その影響を茶の中に展開(例の“藁家に名馬”も禅の持つ価値観の展開であろうと思うし)していったように、その後の紹鴎・利休も臨済禅の“洗礼”を受け、禅の習慣・思考法は桃山の茶の世界に浸透していたとみてよい。
禅堂での生活は修業ならざるはなく、言葉を切り詰め、音を合図に殆どが無言のうちに進行してゆく。僧の沈黙は日常のことでその思考は己の中に還元されてゆく。
ここに、対面恐怖のような緊張が生成する余地があるだろうか。
しかし、かつて修行の経験を積んだ者が多いとはいえ、俗人も混じる茶事の中で相手にも修行中の僧のようなは振舞いを期待することはできまいが、利休と同調者(本覚坊や山上宗二など)の茶会では、言語不用の表現を展開していたことだろうし、利休は町衆や武家衆にも同じ方向での茶会のあり方を啓蒙したかったのではないだろうか。
たとえば後の遠州の茶の多彩さを思うと、秀吉ならずとも、これは厳しいお茶だといわざるを得ない。
花をのみ 待つらむ人に やまざとの 雪間の春の 草をみせばや
これが、利休が自分のもつお茶の心として、たとえに引いた歌である。
見ていたいのは爛漫の桜などでなく、わずかに兆す希望の芽が感じられればそれで十分としているのだから、これは修行中の僧がちらりと明るい想念を浮かべた程度のものであり、やはり緊張を解いていない。
晩年の利休が茶会に求めた境地とはどんなものであったろう。
博多の豪商・神谷宗湛はそのころの茶会に呼ばれることが少くなかったが、利休はその前で秘蔵の橋立の茶壷を二畳の座敷にごろんと投げ出して見せている。
この茶壺は秀吉が何度も利休に所望して拒まれているものだが、ここでは相手が宗湛であるところが微妙だ。朝鮮出兵などで秀吉から急速に親しく迎えられている商人茶人だ。
これは利休賜死のひと月前のことで、すこし冷静さを無くしているようにも感じられる。
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