抱一の井戸

2017/07/20 ブログ
浮世絵

酒井抱一の井戸

 

江戸中期、琳派の画人として著名な粋人に酒井抱一がいる。光琳の向うを張った「風神雷神図」も良いが、同じ屏風の裏側に描いた「夏秋草図」が爽やかで好きな絵だ。

夏の午後、突然の雷鳴とともに激しい夕立の一時が過ぎ去ると、あとには一陣の冷ややかな風が庭先の垣の蔦を吹き上げて軒内に入ってくるという描写が涼しさを呼んで、目が洗われる。

 

さて、この抱一があるとき深い井戸を掘らせたが、あとから砂で埋めて浅く見せたという。

 

この話を山崎正和は「月も雲間のなきは嫌にて候」と同様の、アイロニカルな構想に美を捉える日本人好みの発想、ととっているが違うように思う。

この逸話は粋にかかわるモノとして解釈すべきで、深井戸は金のかかる仕事なので、そのお大尽ぶりの臭さを消すため、砂を入れ浅く見せたのである。

(酒井抱一は姫路藩酒井家の藩主の弟ながら江戸生まれの江戸育ちでもあり、お大尽とはそのことで、画業が本職というわけではない。)

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この種のはなしは、お茶の逸話として時々目にするものだ。

 

本当はかなり神経を使っているのに、動揺する様子が気恥ずかしいのか、それ程でなくても底にテレがあるのか、まるで自然を装おうとする行為。

 

お茶の舞台は、自然の推移に趣味を寄せつつも、山居に似せた露地作りや旬のしつらいに‘らしさ’を装うことが避けられないという、裏の楽屋を持っている。そこでは自然と人為のバランスが気付かれぬように、うまく納まっていなくてはならない。 

 

利休は他人の行為に人為を感知すると、とたんにそのあとのことに関心がうすれて嫌気がさすようで、ぷいと帰ってしまったりする。それでいて、逸話の利休は自分の仕掛けた人為は上手に隠そうとしている。

うまく隠せればいいのか。

諸書に残されているこの矛盾は、創作はしたいが、自他の人為を扱いかねている利休の当惑が記録に残ってしまったのだろう。

 

いつも釜をかけていると評判の茶人を訪ねると暫く待たされて入った茶室の炉壇が実は冷えていたのに興ざめして帰ってしまった話とか、偶然の到来ものでと出された料理が、実はこの日の茶会のために用意し昨夜早かごで届いた品であるのがわかるや、興ざめして早々にかえったという逸話など、利休のこの種の話はよく目にする。招く方も気苦労であったろう。

 

逆に利休の側からは、露地の掃除は落葉を掃き清めたあと、改めて枝を揺すり2,3葉を散らせることで自然らしくなると教えたり、秀吉が見たがっていた朝顔の花群を全部刈ってしまって一輪だけ見せたりなど、人為の極みを実行している。そうかと思えば、ノ貫 ヘチカン という侘び茶人に招かれ時には趣向とわかっていながら落とし穴に自ら落ちて泥だらけとなり、用意された風呂で着替えて、この時は嬉しそうにされるがままになっている利休もいる。

 

一転これが名人の残した人為となると、かなりの不自然でもそのまま鑑賞に堪えている利休がいる。松屋名物の除煕の鷺絵(義政から拝領した珠光が書院広間用に表具したもの。)を小間の床に掛かるよう長さを詰めたいと依頼すると、あの珠光の表具したものをいじるなど論外で、ただ垂らして余った下裾は巻いて置けば宜しいと拒絶して取り合わなかったという逸話など、利休の珠光に対する敬意を示した話として有名だが、利休お気に入りの織部なら迷わず切り詰めたかもしれない。

 

これとよく似た話だが、遠州の利休への敬意を表す逸話として、利休切継 キリツギの茶入れ(割れた陶器を漆で継ぎ復元することが切継。金色漆で継ぐことが多くこれを金継ぎという。)の切継手直しを相談された遠州が、利休がよしとして残したものを改めるなどすべきでない、と取り合わなかった。この時の遠州の脳裏には利休の逸話がよぎっていたことだろう。

 

 

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