宣長の恋
宣長と母の執拗な初恋成就。
伊勢松阪の医師で国学者・本居宣長の修行時代の話。
京の漢学塾と地元松阪を休暇のたびに往復していた宣長は、途中にある親友の屋敷に一泊してゆくのがきまりだったが、そこであるとき友人の妹たみを見初めたことからいづれ自分の妻にと心に決めるが、まだ修行の身であることと友人の妹という安心感からか、言い出しかねているうち、ある年友人宅で妹がすでに嫁いだことを知らされる。
宣長をことのほか大事にしている母は息子の様子から鋭く事態を知ると、修行の障りになることを惧れ、さっそくにも嫁を迎えてしまう。宣長もショックから自棄になっていたか、そのまま話は進み結婚した。
しはしたが、まだ未練はたみの上にあり、嫁ぎ先もさほどの遠方でもなく、その後の消息を気にかけていたが、半年ほどして宣長を狂喜させることが起こる。
たみの相手が亡くなってしまったのだ。
このことを知った宣長はさっそく母と相談して、来たばかりで事情も知らない嫁をことに寄せて離縁し、返してしまう。そして友人の家へゆくと、たみを後添えに迎えたい旨申し込み、成就させている。
生きている人にとり恋愛ほど大事なものはないという宣長の信念は、かれにとっては絵空事ではなく喉の渇きのように必死なことだったのだろうとは、初めてこの事実を探り当てた国語学者・大野晋の言う所だが。
それにしてもこの話、どこかイヤなものが残る。
離縁された女性はその後、どんな人生を過ごしたのか、気になるところでむごい話だ。
以上は大野が当時の記録(宣長の日記・消息)と寺の過去帳から偶然解明したもの。
宣長嫌いを生みそうだが、母子家庭における母と息子の間に起こる類似行動はしばしば耳にするところで、明治文壇の大立者森鴎外にも同様なことがあり、このようなことに対しては、やはり世間は時代を問わず倫理的な抵抗を示すもので、隠そうとする心理とそれを知って違和感を表明する世間があった。宣長当時も宣長の満足とは裏腹に終生自分の生き方に批判のあることを、宣長自身思い続けていたことだろう。
この事実が終生のしつこい論敵だった上田秋成の知るところとなっていたら、一歩も後に引くことのなかった宣長が、どんな弁論を残していたか、それだけは惜しまれるところだ。
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