茶室と女性
茶の湯盛んな現代でも、茶の稽古をする男子は珍しい部類だが、かつて茶の湯の草創期の状況は真逆の風景が展開していた。
桃山期から江戸初期へ掛けての茶の湯の初期の歴史を少しでも齧れば、そこには女性の姿がないことに気付くであろう。男社会の交際上の必要から発展していった茶事に女性の参加が認められるまでには、世相の安定と女性の社会的地位の向上が不可欠だった。
ということで、女性の茶事への参加記録を調べてみた。
そもそも利休当時までの茶会では、茶の点前は立て膝が基本姿勢であったといい、点前を終えた時の姿勢は安座といって両足の裏を合わせて尻餅をついた形が常の座り方であった。この安座は客の姿勢でもあり、即ち、主客ともに正座という習慣がなかった時代であった。このような姿勢は女性には甚だ不都合な状況で、これでは参加もしかねるであろう。
女性の社会的地位については、早く寛永(1624-1645)の頃の本阿弥光悦母の言動が有名で、一族を左右するほどの発言力があったことが記録されているし、宗旦没後の千家年忌法要の願主(すなわち千家の総代表)として宗旦後妻の名が残るなど、その存在感がいまに伝わっている。
わかった範囲の記録に現れる女性参加では、利休年忌茶会記録に現れる、千宗守母堂の亭主による、宗室妻と、近衛家老女を客とした茶会があり、どうもこれは女性だけの茶会だったようで、理解できる。それにしても、これなどどんな姿勢で茶会の二刻(4時間)を過ごしたものだろうか。既に正座が浸透していたのであろうか。近衛家老女の正座が想像しにくい。
宗旦四天王の一人杉木普斎(1628-1706)の茶室の水屋に掲げられた壁書(禁制を記した板)中に、女性を連れ来るべからず、という一条がある。
こういう断りがあるからには、すでに女性参加の現象が世間ではちらほら出現していたこと、この風潮を茶事修行の妨げとして警戒していたことが推測されて面白い。
元禄期の京で宮中茶道を牽引していた近衛予楽院(1667-1736)の会記中に、近衛家奥女中の参加していることが、出現数は少ないものの記録されている。
男女同座の茶会のようだが、公家では女性でも袴を穿く習慣があるとしたら、この時の服装を考えると短袴(モンペまたは長めのキュロット様のもの)のようなものを着用していたか。時代は下ったとは言え、公家社会での正座は想像しにくい。
公家世界は武家ほどには、男女間のけじめに目くじらを立てるようなことが少ないこともあったようで、八条宮智仁親王の桂離宮にみるような広間中心の建築構成の一部に広間から入れる小間茶室(松琴亭等)を設けているところなど、女性も参加しやすい工夫とも解釈できる。
女性参入の当初を考えれば、独立した4畳半茶室などの小間に男女同座はさすがに、当時では穏やかでない反応が各所から起こったであろうと想像できる。まずは10畳・8畳の広間の同座から、公家・町家を中心に茶事への女性参加が浸透していったと思われる。
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