数奇屋のルーツをめぐって
スキヤとは数寄の家を意味する。そこでまずこの数寄という言葉の語源であるが、平安時代からの古い言い回しとなる「歌好き」などという「好き」のことで、ひとつのことに強く偏執した好みを外に表すこと、という解釈のほか、数が寄るとの意から、揃わない材料をあり合わせで数種集めて建築をつくること、というふたつの説が有力である。 数寄屋の起源 現在、スキヤと言えば、ある様式のもとにつくられた建物を意味するが、スキヤの起源を尋ねることは、数寄の心(センス)の表われを歴史のなかに辿ることになり、そしてそれは奈良時代にまで遡ることとなる。
奈良―日本人の特殊な感性
欧米人と異なり、日本人が虫の音を人の声のように聴き取る特殊な脳の働きを持っていることが脳科学の研究により広く知られるようになったが、我々が自然の草木に関心を寄せ、風の流れのなかに季節を感じ、木肌をなでて心落ち着くことは、奈良の昔も変わらぬこと万葉集の歌にも明らかで、おそらく永遠に変わらぬ日本人の習性なのであろう。 実際、当時の宮殿の建物が檜や色塗りの材でつくられていた宮廷周辺にあっても、私的な居住空間にあっては、好んで「黒木」と呼ばれる皮付きの丸太を使われていたことが分かっている。
平安―日本人の理想生活
都が水の豊かな京へ移ると、上層貴族は邸宅の広い敷地に水を引いて池を掘り、築山を築き、とりどりの草木をふんだんに栽えて虫魚を放ち、池に張り出した泉殿や釣殿(涼み台・月見台)に出て、その声に聴き入るという愉しみ方をしている。 そんな生活のある一方で、文雅に長けた官人たちのなかには、当時の先進文化国・中国の文人による詩文世界(特に白居易の香炉峰下の草廬生活など)に強く憧れるあまり、好みの自然木や竹(白氏が好んだ)などを使って、山居の香りのする小亭を構えるという風が、長く伝統のように伝わっていく。時代の主な人物だけ拾っても、在原業平(825-880)の亭、兼明親王(919-981)の小倉山亭、慶滋保胤(934-994)の亭、鴨長明(1155-1216)の方丈などがある。 こうして、邸宅に贅を尽くす貴族が現れる反面、閑居を思わせる住居スタイルが下級公家・文化人の伝統になっていくことが、注意を引く。
鎌倉―禅と道の成立
京を離れた鎌倉の上層武士団は、時を合わせたように登場した大陸渡来の禅文化に公家とは異なる生き方を探すなかで深く関わったことから、禅の風儀が広く、その後の彼らの文化全般におよび、すべてにより簡潔な直接表現を求める心性が育った。機能を重視し、無駄を削ぎ落として、モノの本質に迫ろうとする新しい美意識は、この後、武事をはじめ諸文芸(連歌・能・香・花・茶など)を修行の道としていくことになる。
室町―新たな美の発見時代
この傾向は建築においても無関係でなく、歌道に生まれた新しい感性が能楽におよび、また、茶道の成立に寄与して、やがて建築造形に反映していくなど、底流として桃山・江戸まで流れていくのだが、室町中期(1500年頃)、ここに奈良出身の僧がスキヤの歴史に画期的な仕事を残すことになる。「茶の湯開山」となる村田珠光である。 二十歳の頃京へ出た珠光は大徳寺・一休禅師の下で禅を修め、その許しを経た後、足利義政(八代将軍)の同朋衆(美的生活の監督兼管理者)である能阿弥のもとに留まり、将軍収蔵の唐物名物・名品に親しく触れて、一級品の何たるかを学ぶという幸運に恵まれ、やがて当代一の目利きとしての評判を得るまでになる。 かねて茶を供することに一方ならぬ工夫のあった珠光は、さきに大徳寺では禅院茶礼(献茶を中心とした儀式の茶)を、この能阿弥の下では殿中茶礼(書院茶立所の台子の茶)を習得するにおよび、ただの貧僧にすぎぬ自分の茶とは、「物の足らざるを心で補う」ものであるべきで、また大陸渡りの名物唐物にのみ依存している美意識だけが、わが国本来の美意識ではないことの自覚から、「和漢の境を紛らかす」として国物と低く言われた瀬戸などの国産品をとりいれ、また粗相なるものの美を発見して、これと唐物とを取り合わる対照の妙を「面白し」として茶の場に供し、「藁家に名馬を繋ぎたるがよし」ということを、宗珠・空海といった高弟たちに教えたと言う。 茶の場も、それまで貴人を迎える室は膝の触れ合うことのない最小6畳とされていたのを、茶に於いては庶人平等だとして4畳半に仕替えている(茶室のはじまりとして紹介されることの多い義政の書斎・銀閣寺同仁斎は4畳半で、義政自ら茶を客に供したとされるが、これは珠光の思想の影響と見る説があり、実際義政は熱心な阿弥陀信仰者であったが、万物平等の教えから同仁の室号もそれによるものと言う)。 こうした珠光の考える茶の湯のありかたが時代の共感を呼び、「侘び茶」として桃山時代につながり、茶の湯の主流にまで成長していく。こうした茶の湯の思想的深まりが後の数寄屋の豊かな表現を生み出すのだが、珠光こそがスキヤに新風を吹き込んだ思想の、その源に立つ恩人と言うべき人物であろう。 この時代は、皇室・公家の逼塞期であり、公家が生活のため地方へ芸能師範として出向する時代相であったので、京よりも地方に公家の文化が残ることになった。そんな時代においても遊びを忘れぬ公家衆・門跡寺院のなかから、1400年頃、記録に「茶屋」が登場する。それが桂離宮に見るそれと同じとは思えないが、以後、歴史のうえに「茶屋」が散見されるようになる。 茶のための室が珠光のもとで工夫されてはいたが、6尺床・棹縁天井・張り壁・塗縁襖・坪の内と、まだ書院の表現から離陸できずにいた。我々が知る茶室らしい表現を獲得するのは、次代の紹鴎を経て、その弟子・千利休まで待たねばならないが、この間、自由な表現を盛んに試みていたのは先の茶屋の名で現れる建築で、それは茶接待のための休息所としてつくられ、室内を装飾して、時に酒宴となることもあるといった生活に密着した使われ方は、桃山・江戸へつながる数寄屋の本流の資格十分である。
桃山―スキヤから数寄屋へ
1550年頃から茶屋の記事が茶書に頻繁に出てくるようになるが、こちらは堺衆が所有の茶屋で遊んだり、阿波の大名が自分の茶屋に堺の商人を招いて閑談したりして、個人が交際に愉しみを求めて茶屋を構えるという変化が見て取れる。この傾向は利休の茶屋披き、明智光秀の茶屋接待など興味深い事件を挟みつつも、秀吉の時代になってやっと数寄屋としての茶屋が万人の前に定着をみせる。 この頃、側近・利休の茶も完成の域に入り、茶の湯に堅苦しさを憶えていた秀吉は盛んに茶屋を取り込んだ園遊を催す。天正15年(1591)北野大茶会に間に合わなかった宗湛を聚楽第の松原の茶屋に招いた遊びたっぷりの会などがあるが、なかでも一番は醍醐の花見を催した際の、とりどりの趣向を尽くした八軒の茶屋で名だたる武将が一日商人や百姓となって物を売って興じたという園遊であろう。 こうした遊びの工夫のなかから、書院の意匠をとり、田舎家の素朴をまね、進化中の茶室からは品位を取り込んで、人を暫し閑雅なくつろぎに憩わせる数寄屋のスタイルが選択されていったと思われる。 この時代、数寄屋の第一の創造者も、茶室を完成に向かわせていたのと同じ利休で、聚楽第にあった利休屋敷は、そのかつて見たことのない独特のたたずまいで見るものを絶句させるほどであったし、四国の武将・長宗我部は利休に茶座敷と茶屋の建設を依頼している。 当時、茶室という言葉はなく、茶座敷・数寄座敷などと呼ばれていたが、紹鴎の4畳半からさらに2畳、1畳半と簡素化が進み、4尺床・下地窓・にじり口・突上げ窓など、現在の茶室を構成する侘び茶の表現はほぼ出揃っていた一方で、黄金の茶室を秀吉が宮中に持ち込んで天皇に披露した頃から、皇室周辺にも茶の湯を試みる機運が生まれ、ここに茶屋・茶室の建築と公家の遊びの伝統が合体して、新しい数寄屋が現れるもとが用意された。
江戸―数寄屋の定着
利休・秀吉亡き後、偉大な桃山の薫陶を受けた数多の大名茶人たちが、京の御所と新都・江戸の間を結んで活動をはじめる。織田有楽、古田織部、細川三斎、金森宗和、小堀遠州、片桐石州といった面々で、利休時代の無常観を大事にした侘び茶よりは、自分たちの日常に近い感覚で交際としての茶の完成を目指していくなかで、各自独特の造形と工夫を茶室に持ち込んだ。それがまた、数寄屋に持ち込まれるということを相互に繰り返していく。 さらに、数寄屋を語るうえでの注目は、寛永期(1620~)の京で動き出した宮家を中心とする建築・造園の展開で、桂の宮智仁親王が桂離宮に着手するのを皮切りに、水無瀬別荘・修学院・曼珠院・仁和寺施設など、後世から数寄屋邸宅の指標として憧憬されることになる数寄屋建築をを次々と展開、宮家の造形と言うべき様式を完成させてしまうのは、今日から思えば驚異的業績というほかはない。 それにしても、平安時代の寝殿造りで建築・造園の愉しみを作り出したように、600年の後、また自分たちの工夫により新しい建築・造園の愉しみを創作したことは、公家文化のもつ伝統の地の厚みを感じさせるに充分で、なにより、利休流の好みとも異なる閑雅に遊ぶ世界を後世に残してくれたことで、その後の数寄屋文化に果たした貢献は測り知れない。 書院建築の世界においても、将軍が大名家を訪問する際の「数寄屋御成り」という慣例ができあがったことで、くつろぎの場であった数寄屋座敷が公的な場として使われるということになり、同居する書院との折衷様式が生まれることになった。 一体に、人の五感を愉しませることに社会の隔てはないもので、こうした接待文化になった数寄屋の広がりは街中へも流出して、大名・商家の下屋敷から料亭、さらに揚屋・遊郭まで各々の目的に合わせた機能を意匠化していった。京の粋(スイ)・江戸の粋(イキ)として、浮世絵に描かれた数寄屋世界が、明らかに桂の持つ数寄屋の感性とは別物であるのはこのためである。 この時代の補足として手短に記しておきたいのは、江戸初期に大陸から渡来した煎茶とその文人趣味に合わせた座敷のことで、こちらは通常、数寄屋の範疇とは別の様式として扱う。こちらは、中国の詩文のなかに俗塵を払い、仙界につながる境地に遊ぶという、「茶の湯」とは思想・趣味とするところが異なる。
明治―洋化のなかの数寄屋
明治維新後は、欧化の波のなかで伝統建築が日陰に回りがちだったが、混乱を生き抜いた政府貴紳たちや、政商と言われる有力商人たちの間では、自宅を流行りの洋館でつくりながらも、それと連絡するかたちで必ず傍らに書院の接客室と、数寄屋の私室を用意することを忘れなかった。 明治20年代以降になると、貴紳の住宅建築は、書院で全体の威厳を表明しながら、細部を数寄屋意匠で遊んで緊張を和らげる、ということをする一方で、別荘というかたちで構えた住まいには、徹底した数寄屋で粋を通した建築を愉しむということをする。 手がける工匠も一流だが、任せる貴紳も趣味・識見に優れ、相互の刺激でよいものがつくり出されていったのであろう。南禅寺畔の邸宅群(対龍山荘・清流亭)、目白の屋敷群(蕉雨園・椿山荘)などは現存する好例であろう。
大正・昭和―近代建築と数寄屋
大正以降の数寄屋が持つ大きな変化は、工匠が手がけていた数寄屋という分野に欧米の建築学術と思潮を学んだ建築家が入って、設計のみならず監理までするようになったことであろう。 従来の数寄屋から見ると、意匠のみが先行して追随すべき技術が工匠任せという傾向はあるものの、彼らの残した斬新な感覚は他に変えがたい価値を数寄屋世界に刻んだことを示して余りあると言わねばならない。江戸文化の蓄積から紡ぎ出す吉田五十八の粋表現、八勝軒を頂点とした堀口捨巳の整然とした作品群と茶室研究、古典を踏まえて生まれる村野藤吾の洒脱など。 小生も、先人の跡につづいて、こののち、一歩でも新世界に踏み出したいものと思う。